スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

03月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

 

人間的思考の運動を止めきれないものは、自らの快⇔不快の運動による好みにもとづいて偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。すなわち二元の運動で快に振れている部分では喜び、反対のものを排除しようとする。まさに人間的思考の運動である。この運動をすると、二元の運動をするので、喜び苦しみが交互にかれに襲いかかる。あるときは、喜び、また、あるときは苦しむのである。修行者はこの運動が苦のもとだと言うことを知って、この運動に常に気をつけ、煩悩の荒波を渡り終えるのだ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇886の解説

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

 

実に人間的思考の運動は二元の運動をおこなっている。すなわち、「わが説は真理である」⇔「他人の説は虚妄である」と二つのことである。そして、あるときは、真理に見え、あるときは虚妄に見えるような運動を繰り返すのである。人間的思考であるから必ず反対の現象が現れる。そのおのおのが執着している真理は永久のものだと信じているが、人間的思考の運動を制止しない限り運動をするので、それは想像しているだけに過ぎず、運動をしたときに反対のものが現れ苦を生じるのである。それを知って修行者は自らの見方に固執することなく、人間的思考の運動を止めて、苦集滅道を歩み彼の岸へ到達せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

人間的思考の運動を繰り返す、みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、種々異なった真理を説く。それは、人間的思考の運動すなわち正⇔誤の運動をしているので、自らの見方と違う見方の真理は全て誤りという断定を下し、また他の見方と同じであってはまずいのである。それ故に種々異なった真理を説く。修行者は、自らの運動を制し視野が狭くならないように気をつけ、鏡のように全てを映し出す境地へ至れ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884の解説

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

 

道の人は、真理を様々な角度から読み解くが、その真理は一つである。その真理を知った人は、完全に人間的思考の運動を制止しているので、争うことがない。かれらは、めいめい異なった真理をほめたたえている。そう言う読み解き方もあるのかと。それぞれの特性によって様々な真理を観ることが出来る。そして世の中を照らすのである。修行者は、自らの特性を活かして世の中を照らすのだ。敵対してはならない。花をいけるときにそれぞれの花の特性を活かしていけるかのごとく、それぞれの真理を称え世の中を輝かさせるのだ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883の解説

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?

 

 

人間は、自らの見方にこだわり執着をする。そのために視野が狭くなっているのである。その狭い視野では、様々な見方を知ることは出来ない。故に或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?かれらは、同じものを見ていたとしても、それぞれの見方をするので、それぞれの見方がわからないのである。それは、象のしっぽしか見ていない者が、象の鼻しか見ていない者の話を理解できないことと同様に、双方が同じ象を見ているにもかかわらず、全く違う意見を言い、お互いに虚偽だと言うのである。聖者は、全体を見る。そして如実にそのものを知り理を知る。全てを知る聖者には、もはや論争に及ぶ余地は残されていないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

 

人が論争に及ぶとき、一方的な見方をする。その一方的な見方から見れば、いかにも真実のように聞こえるのだが、他の見方では、それは真実ではない。故にぶつかり合うのである。諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。自らの考えにこだわり執着をすることそれは、人間的思考である。聖者は、それは人間的思考であると知って、自らの一方的な見方を取り除き全ての見方を知ることによって理を知り遂には大円境地に至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。ところが、自らの考えにこだわり他を排除しようとすると、こだわりとこだわりがぶつかり合うときに論争が生じ、こだわりは、人間的思考であるから論争に及ぶ人間は、双方とも人間的思考の運動をしているのである。それを知って、自らの運動を制して修行者は論争に赴いてはならない。全ての人間的思考を制したかれはもはや満たされ、何者かに打ち勝とうという貪りは掘り尽くされたのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

人間的思考の運動とはどのような運動か?快⇔不快の反復運動である。そして快を貪り求め、不快を排除しようとする。このような運動が人間的思考なのである。もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。すなわち人間的思考の運動なのだ。自らの考えに執着をし、論的を排除する。まさにそのものである。このような運動をしているかぎり智慧とつながることは出来ない。それを知って修行者は、自らの心の運動に注視し、自らを制して中道を守り遍歴せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

 

人には様々な見方がある。そして様々な人間的思考が存在する。自らと同じ見方をしているものを快と見なし、違う見方をするものを不快と見なして論争に及ぶ。すなわち論争に及んだ時点で、かれらは人間的思考なのである。そしてそれぞれが、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っている。自らの見方では真理なのだが違う見方では愚者となる。それを知って聖者は、それぞれの見方を熟知し、それぞれの見方をも知るので論争に及ぶことはない。自らの精神的な貪り、高ぶる心は人間的思考の運動であると知り、自らを制して安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

 

人には、それぞれの見方がある。ところがそれぞれが自らの見方に執着をして、他を排除しようとする行為それは人間的思考である。自らと同じ見方をするもの快と感じ、違う見方をする人間を不快と思い排除しようとするのである。自ら真理への熟達者と称し慢心に陥り、このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人であると論争に及ぶのである。修行者も、ある真理を掴んだときに「これだ」と想う。その時点ですでに人間的思考の運動が立ち上がっているのである。そしてその掴んだもの以外を排除しようとする心、それもまた人間的思考なのである。他のものを「たいしたことない」おと思い、自らは「すごい」と思う。これこそは人間的思考の運動である。運動をするので、あるときは、他が「すごい」ことになり、自らが「たいしたこと」なくなるのである。修行者は、この人間的思考の運動を制して中道を目指すものであって、人間的思考の運動による一時的なことを喜ぶものではない。その喜びをも捨る。それが喜捨なのである。