スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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07月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819の解説

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)=運動の元をつくるのである。これがかれの大きな難所であり、それは運動するので繰り返されるのである。故に修行者は、自らの運動を止める事を学ぶべきである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818の解説

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

 

かれは諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による欲の想いに囚(とら)われて、それらを求めて困窮者のように考えこむ。このように両極端を手放せない人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。修行者は、この世の無常を感じ、両極端を離れて修行を行うものである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817の解説

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

 

かつてかれのもっていた明かりをに照らされた道も真理による教えも、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

かつては独りで暮らして自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制する修行をしていたのに、のちに両極端を求めて淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。そうしては、また迷いの生存の中に引き込まれていくのである。

 

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ815の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。それらを止めて真理を追究しない限りには、この荒波を乗り越える事はできないのである。

 

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端による邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に分けることなく、執着して考えることがない。かれはその人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた目で見る真理以外のものによって清らかになろうとは望まない。かれは自らの運動を制し、貪らず、また嫌うこともない。

 

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、汚されることがない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制すること、それが苦をはじく事に他ならない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)の運動を制し、愛することもなく、憎むこともない。それらを手放しているので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)に汚されることなく中道を歩むのである。

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

執着の対象から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端から独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域=思考の運動のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、それらを掴むが故に憂い、それらを掴むが故に悲しみ、それらを手放さないが故に慳(ものおし)みを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、それらの苦しみのもとである執着の対象を手放して、安穏(あんのん)を見たのである。