スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

お釈迦様が説かれた教えとは?

お釈迦様と言えば、仏教の開祖と言われてますが。そう言うと、宗教を立てたのか?と思われがちですが、仏教と言う宗教はお釈迦様没後の人々によって作られたものです。お釈迦様自身は、信仰を捨てよとスッタニパートの最後におっしゃられています。つまり信仰するが故にこの苦しみの世界へ生まれてくることがないようにせよと言う事です。

では、お釈迦様は何を説かれたのか?それは、苦集滅道です。

苦しみを集めているもとを滅する道

我々が住んでいる世界は苦しみの世界です。

何故に苦しむのか?この世界は無常だからです。

生あるものは死に、時間と共に変化する世界。

故に何かを掴もうとするならば、それは苦しみを掴むことになります。

それを掴むな、手放すならば、苦しみを捨て去るであろうとお釈迦様は説かれました。

そもそも人間は何故この苦しみの世界へ生まれてくるのか?

それは、自らが手放そうとしない想いによって生まれてくるのです。

何故時間は生じるのか?人間的思考の運動(快⇔不快)の波によって生じるのです。

お釈迦様はこの苦しみの世界を脱出する方法を説かれました。

それが、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行である。中道です。

この中道を保って、この世界を観察するならば、この世界の何たるかを知って

つまり、中道による気づき=智慧によって、遂には自らが知り、

この苦しみの世界から解脱するであろうと言う教えなのです。

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1124のご法話

1146 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」

 

 

「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。信仰によってもこの無常の世に再び生まれてはならない。それらをも捨て去るならば、そなたは死の領域(りょういき)を乗り越えた彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1123のご法話

1122 「四方と思惟(しい)と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識(し)られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

 

 

1123 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によって妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、はげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」世の人々は、運動による希望と妄執によって、この無常の世に生まれるのだから。

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1121のご法話

1120 ピンギヤさんがたずねた、「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。ーどうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」

 

 

1121 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。この無常の世に生まれ、物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は病いなどに悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、物質的形態を捨てて、観察によって真理を見、再び生存状態にもどらないようにせよ。

 

 

スッタニパータ 学生モーガラージャの質問1119のご法話

1116 モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。

 

1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

 

1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

 

1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」

 

ブッダが答えた、「つねに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、両極端による自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)=無常なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王=再びの生を見ることがない。

スッタニパータ 学生ポーサーラの質問1115のご法話

1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、そこから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンには、この〈ありのままに知る智〉が存する。」

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、全てを手放し、無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜を得続ける事は束縛である』ということを知って、無常をこのとおりであると知って、運動の範疇から出て現象と心についてしずかに観ずる。安立したその修行者には、この両極端に分けずありのままに知る智が存する。」

スッタニパータ 学生ポーサーラの質問1114のご法話

1112 ポーサーラさんがたずねた、「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。

 

 

1113 物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものも存在しない』と観ずる人の智を、わたくしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」

 

 

1114 師(ブッダ)は答えた、「ポーサーラよ。すべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来(にょらい))は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱(げだつ)していて、そこをよりどころとしていると知る。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ポーサーラよ。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、反応の仕方を見極め、すべての識別作用の住するありさまを知りつくした全き人(如来(にょらい))は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは、二元の思考から四智思考へと転換し、四方向から1方向へとそれらの法輪をまわし解脱(げだつ)していて、そこをよりどころとしていると知る。

スッタニパータ 学生ウダヤの質問1111のご法話

1110 「どのようによく気をつけて行なっている人の識別作用が、止滅(しめつ)するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」

 

 

1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行なっている人、の識別作用が止滅するのである。」

 

 

「内面的にも外面的にも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、感覚的感受を喜ばない人、このようによく人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけて修行を行なっている人、の識別作用が止滅するのである。」

スッタニパータ 学生ウダヤの質問1109のご法話

1108 「世人は何によって束縛(そくばく)されているのですか?世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」

 

 

1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

 

 

「世人は歓喜に束縛されている。両極端に分け何かを得ようとする思わくが世人をあれこれ行動させるものである。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、それらを手放し、妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

スッタニパータ 学生ウダヤの質問1107のご法話

1107 平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、ーそれらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した平静な心がまえと両極端に汚されぬ念(おも)いの清らかさ、分けることなく全体を鏡のように観察する集中力ーそれらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」