スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

こだわりを捨てて、想いを定めずに世の中を遍歴し、自らの想いに親しみ近づくことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、その想いが描く未来に望みをかけることなく、人々に対して自らのこだわりによる異論を立てて談論をしてはならない。それらを離れて寛容さを養い、その開かれた目で真理を視るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

その修行者はどうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『汝の説は虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?かれは、自らの考え方に固執しているが故に自らと同じ考えか、あるいは違うのか、と言う断定的な考えにこだわるのである。『同じ』とか『違う』とかいうことの思考による運動を制した人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

 

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその人間的思考の運動(ある⇔ない)と言った想いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう想いは存在しない。かれは、自らの運動に気づき、それらの想いを制して安穏を観たのである。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動(ある⇔ない)によるあれば、優秀、なければ劣等と言うような教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、それらの考えに執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安である人間的思考の運動(ある⇔ない)を止める修行について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは、わたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それら教義、学問、知識に対する人間的思考の運動(ある⇔ない)を捨て去って、教義、学問、知識に固執することなく、こだわることなく、運動をせず、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。これが内心の平安である。すなわち、教義、学問、知識が「ある」、あるいは「ない」と言う分別による運動が発生し、かれらを迷いの流転へと引き込むのである。

スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する人間的思考の運動(快⇔不快)の反応の仕方による執着を思考の反応によるものであると確かに知って、諸々の偏見における誤った反応の仕方を見て、現象に固執することなく、現象を観察し、真理を知って、内心の安らぎをわたくしは見た。」

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、異性が近づいてきた、その時、自らの心に愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)が立ち上がるさまを見て、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろうと観想して、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと自らに言い聞かせたのである。

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは「自分こそ勝利を得るであろう」と人間的思考の運動(勝⇔負)による想いを思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、心に想い描いた勝利を実現することは、とてもできない。それらの運動の範疇を超えたところに仏陀は住しているからである。

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

またかれらは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす、対立を思考を止める事で、離脱して行い、あるがままに見、一つの見解を他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。修行者は、自らの内に真理を見出し、人間的思考の運動(他との比較)の範疇に真理を見出すことは無いのである。