スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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02月

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間は、想いによって生まれてくる。そして、自らの想いとこだわり、すなわち一方的な偏った見方に執着をして、それぞれの見方が違うものであるから、お互いに衝突しながら世の中をうろつくのである。その想いによって、人々は束縛される。人間的思考は運動をするので、あるときはその想いが満たされ、あるときは枯渇する。そうして迷いの流転に引き込まれていくのである。想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって、様々な見方を知り、一方にこだわらず平等な見地に立つ聖者は解脱し、遂には迷いの荒波を渡り終わって、彼の岸に到達するのである。

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

 

人間的思考の運動に陥ると、見解についても、思想についても、慢心⇔消沈という人間的思考の運動を繰り返す。修行の達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのような運動をするものではないからである。人間的思考の運動に陥ると宗教的行為を見ては、感動し、また伝統的な学問を学んでは、心が運動する。「これだ」と思うのである。修行の達人は宗教的行為によっても魅了されることはないし、また伝統的な学問によっても心を動かされることはない。かれは人間的思考の運動による執着の色眼鏡で物事を見ることはないからである。

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

 

修行完成者は、諸々の偏った見方を離れて、世間を遍歴するのであるから、それら、世間における人間的思考の運動に同調して論争してはならない。たとえば汚れから生える茎にとげのある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は、人間的思考の運動を静止するものであって、人間的思考(称賛⇔非難)の運動による論争に陥って称賛という我欲を貪り求めてはならない。自らの人間的思考の運動による欲にも汚されず、世間にはびこる誘惑にも汚されることなく、世の中を遍歴する。それが聖者だと呼ばれる。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

 

人間には、人間的思考の想いがある。それは、家であり、その住所に根をおろすことであり、村の中での親交である。人間的思考の動きには、反復する運動があるのであるから、親交があれば敵対が生まれ、家に執着をし、住所にこだわり執着をする。聖者は、諸々の絆を捨て去り、家を捨てて、住所をも捨てて、村の中においても何かを求めて親交を結ぶことがない。諸々の欲望を離れ、未来に何かを欲する想いを捨て去っているのであるから、人々に対して異論を立てて談論してはならない。人が動くとき、そこには想いがある。その想いを制して聖者は中道を歩むのである。

 

 

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

 

 

その二元の想いを捨て去った修行者は、どうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『汝の説は虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいう運動のなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。人は、目の前にあらわあれる現象をすぐに両極端に分けるすなわち「正しい」⇔「間違い」である。これが人間的思考である。この思考は運動をするので、交互にその状態が目の前に現れる。ある時は正しいものが現れ、ある時は間違えたものが現れる。その運動に伴って、かれのこころも一喜一憂する。そのこころは、荒波である。修行者はその運動に常に気をつけて、荒波を回避せよ。論争の結果は、この、こころの快⇔楽のみである事を知って寂静を保って世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える思考は人間的思考である、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺をしない人、かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。人は、他人と比較対象をする時、この人間的思考の運動が立ち上がっている。すなわち優れてる⇔劣っているである。その思考に伴って、こころも優れていると感じれば喜び、劣っていると思えば消沈する。このような運動をしているのである。そしてその想いによって論争する。そこには、勝利して快を得たいという欲求が存在する。その人間的思考の貪りを求めてさまよい迷妄に陥るのである。他人より優れているから解脱するのではない。また劣っているから解脱できないのではない。その思いの運動を制したものかれこそは、解脱へ近づくものである。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 
841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の固定観念にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、二元に分けて執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの二元の思考を止めることについて微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説『ばかばかしい』と見なすのです。人間には、記憶がある。その人間的思考にもとづき分別をした記憶によってこれが正しいとか、これは間違いだとかの分別をする。その時点ですでに人間的思考の運動に陥っているのである。修行者はその思考の運動こそ禍福の根源だと言うことを知って、その運動を制して、安穏を観たのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。この学問が有る⇔無いと言う運動の思考が人間的思考なのである。人間的思考の運動はこのような思考だと知れ。すなわち学問がある⇔無い、知識がある⇔無い、戒律や道徳を守る⇔守らないこれが、煩悩の荒波(運動)である。この二元の喜びを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、中道を保って、それらを求めて迷いの生存に戻らないもの、それが聖者と呼ばれる。

スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 
837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

一つの見解にこだわって、このことを説くと言う思考が聖者には存在しない。諸々の事物に対する偏った見方を明らかに執着であると知って、その偏った見方すなわち人間的思考(快⇔不快)の運動による偏った見方に執着する事は、過ちだと知って、その運動を考察しつつ内心の安らぎをわたしは見たのである。こだわりは人間的思考である。こだわりによって周りの人間を自分の理想に染めようとする思考もまた人間的思考である事を知ってそれを取り除くのだ。そのこだわりは、かれにとっては快である。その見方以外は、かれにとっては、不快なのである。不快であるからその見方以外の考え方を排除しようと考えるのである。このような運動であると知れ。修行者は、こだわりには苦がつきまとうことを知って、その運動を制止して遂には安穏に至るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

 

かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うた。娘が縁者になれば、いつでも教えを請えると願って。また、ブッダと言えども世の中の男が欲するものは悦ぶであろうと考えて・・・。そこで師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、3人の女性を見た。それぞれの心中に、ある者は、愛執に満ち、ある者は、嫌悪(けんお)に満ち、ある者は、貪欲(とんよく)に満ちていた女性を見たので、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。煩悩に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」これが第二の観法である。

 

 

 

人は楽をしたいという心が立ち上がるのですぐに何かに依存しようという心が働く。この依存する心も人間的思考である。人は仏や神に対して依存する心で祈願をする者がいる。それは、例えば歌の練習をしないのに歌が上手くなりたいと乞うのと同様に、自らの心を制していない者が清浄を得られるように乞うこと、それも依存である。すなわち依存では清浄は得られないのである。ブッダもマーガンディヤの心の内に娘を通して依存する心がある事を観る。かれの心内は、世の中の男性は、全てが快美な娘を欲すると言う偏見の元にブッダが悦ぶだろうと考えたのである。そこでブッダは対抗思念、もう一つの見方を伝える。その者の心の内には愛執、嫌悪、貪欲といった汚泥がひそむ者もある。また、身体の中は、糞尿に満ちている。このように観ずる者に悦びが生ずるであろうか?修行者とは、このように快に偏ることはなく、また不快に偏ることもない。この2つの思考の波を制して遍歴する者それが修行者なのである。