スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対しての人間的思考の運動を制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。かれは、常に気をつけ自らの運動を制して遂には智慧を獲得したのである。

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人すなわち人間的思考の運動によるこだわりがある人は、人間的思考の運動による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動を止める修行によって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

前の師などを捨てて後の師などにたよと言うことは、自ら人間的思考の運動を止める気がなく師などに何とかしてもらおうと頼り近づく。自らの運動は、他のものが止められるすべはなく、自らが気をつけるしかないのである。このように煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝を頼りにとらえては、また放つようなものである。このように同様の事を繰り返し煩悩の激流に溺れていくのである。修行者は、気づかねばならない。この修行に信仰心は必要なく、頼って運動が止まるものではない。彼の岸へ渡る方法をよりどころとし、自らが自らの運動を制して渡り終えるのである。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動を止めることのほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福(幸、不幸)に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因をつくることがない。人間的思考の運動をすると快、不快にものごとを分ける。分けるとそれは振り子のような運動をするので、快を追い求め掴んだとしても、全く逆の方へと運動し、同等の不快がかれに襲いかかるのである。これが禍福の因である。そしてこの運動を止めていない状態が、禍福に汚されている状態である。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を止めて遂には禍福(煩悩の荒波)を乗り越え彼の岸へ到達するのである。

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

もしも人が人間的思考の運動による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が分別した智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩の荒波に飲み込まれている人がその荒波を止めること以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「人間的思考の運動をしている偏見ある人」と呼ぶ。人は常に人間的思考の運動により、快、不快に分別し自らが快と感じたものを正しいとみているのである。また、知識によって自分の運動が止まるわけではない。常に気をつけ自らの運動を制している修行者の運動が制止し煩悩の荒波を渡り終え遂には彼の岸へと到達するのである。

 

 

 

スッタニパータ  清浄についての八つの詩句788の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、見解を最上の境地に達し得る智慧であると理解する。人が、人間的思考の運動によって快、不快に分け快と言う偏った見方によって清浄になるのであれば、人間的思考の運動を制していない人間が最上の境地に達することになる。智慧とは、人間的思考の運動を止めたところから繋がるものであって、この運動の範疇にはない。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を制して常に気をつけて世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

 

人間的思考の運動によって自らの判断基準で快⇔不快に分け諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。おおよそ半分の人は、かれらと違う見方だからである。偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは、分ける事もなく、執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれは、無常で人間的思考の運動による激流渦巻くこの世にありながら自らの運動を制し一切の偏見を掃い去っているのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

 

邪悪を掃(はら)い除いた人、すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)を制した人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。かれは、運動によって分けないので、何かを好むと言うことがない。人間的思考の運動を制した人は、何かを欲して、いつわりと驕慢(きょうまん)を言ってでも欲するような欲を捨て去っているのに、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。人は、想いによって生まれてくる。その想いすなわち人間的思考の運動が生み出す欲を捨て去って修行者よ彼の岸へ到達せよ。

 

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

 

諸々の事物に関する人間的思考の反応の仕方はこれこれのものであると確かに知って、自己の人間的思考の運動にもとづいた見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの人間的思考の運動のうちにあって、ものごとを不快と感じるものは斥(しりぞ)け、快と感じるものはまたこれを執(と)る。聖者は、このような運動の仕方を制して遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句784の解説

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

 

 

自らの人間的思考の運動にもとづいた偏った見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分の反応の仕方のみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安すなわち人間的思考の運動による一時的な平安とかれが信じるものに執着しているのである。それは運動をするので、全く正反対のものが時間と共に現れるのである。それを知って聖者は、自らの人間的思考の運動を止め、ありのままに知る境地を極め、遂には安穏を観たのである。