スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また何かを得ても、高慢にならず、あるがままに見、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように観察することが気づきに繋がるのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、(遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、何かを求めて偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、何かを得ても慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。このように自らの心をよく知りコントロールするのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす未来を掴もうとする想いを制し、未来を願い求めることなく、記憶によって運動する過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遠ざかり離れることを観じ、諸々の両極端による偏見に誘われることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、思考の運動がもたらすあとで後悔するような悪い行いをなさず、自らの運動に対して、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。このように自らの心を制し、中道を歩むのである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。そのように中道を歩み気づきによって安らかとなるのである。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。運動を制し、中道による観察から智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によってもそれらを掴むことがないので、導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは、あらゆる人間的思考の運動(快⇔不快)を見極め、執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

竜(修行完成者)は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の両極端による偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、それらを掴み固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、聖者は平安を説く者であって、、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。そのように中道を歩むのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

全てを手放し、住所に捉われることなく、村の中で何かを求めて親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を離れ、未来に望みをかけ掴むことなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。それらのこだわりを捨て去るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

 

 

その人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げた修行者はどうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を制して、『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。思考の運動を制したかれは、論争から離脱して、中道を歩みあるがままの真理を観たのである。