スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889のご法話

889 かれは自らの人間的思考の運動(真理⇔虚妄)が止められないために、誤(あやま)った妄見を以てみたされ、両極端を掴んでは驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。

 

論争によって自らの想いを主張する修行者は自らんの人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴んだ両極端を掴んでは喜ぶ。そして慢心に陥り完全だと思い込むのである。かれが「これだ」と思った瞬間、かれの人間的思考の運動(快⇔不快)は立ち上がっており、修行とはそれを止める事であるにも関わらずである。故に懸命な修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事に注視し、心動かされることなく世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888のご法話

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま他人を蔑視し、そのように語る

 

 

人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を立ち上げたまま真理に達したと言う事はおかしな話である。なぜなら真理というものは人間的思考の運動を止めて見えるものであって、人間的思考の運動を立ち上げたままでは到底見る事はできない。故にそのような修行者は自らが掴んだ何かを妄信してそれを真理だと言っているのである。故に智慧ある修行者は、それらにとらわれることなく、自らの心の動きに注視し、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887のご法話

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存=人間的思考の運動(正⇔誤)により掴み依存して他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

偏見というのは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた偏った見方である。学問というのは一つの方法である。思想というのも他の人の見方である。それらを人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、自らの考えと同じであれば分別して掴み喜ぶまた考えが違うものは愚者という事になる。これを見ても自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められていないので真理を見る事はできない。故に修行者はまずは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて観察に努めるべきである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886のご法話

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見=人間的思考の運動(真理⇔虚妄)にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

ひとたび修行者が人間的思考の運動(正⇔誤)を立ち上げると自らの考えあるいは見たものが正しく、他のものは誤りであると見る。それが真理だと思い込めば他のものは全て虚妄だと思うのである。真理を見るにはまずその人間的思考の運動を止めないとみる事はできなのであるから智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動を止めて真理を見たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇884のご法話

884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼によって、その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。

 

真理とは自ら見るものであって他の人から教えてもらうものではない。中道の眼で観察をし、そこからの気づきで得られるものである。故に他の人が見たものをどうこう言う必要もない。聖者は自らの眼で見、遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇883のご法話

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端への想いに執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができないからである。

 

人が「これだ」と思い込んで掴んだ想いそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故にその想いに執着したならば、他人とぶつかるのである。それぞれがそれぞれの想いに執着をし、衝突する。それを見て賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、想いを掴むことなく、遂には真理を見たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882のご法話

882 諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの各自の見解=「両極端による見方」を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を立ち上げたままのことばそれは真理ではない。なぜなら半分を見ていないからである。そうしては逆の半分を見ている人間を愚者だと決めつける。故に双方非難の応酬となるのである。それを知って賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め自らの眼で真理を見、遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881のご法話

881 またもしも人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。しかしながら、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で観察しないならば、真理を観る事は到底できないのである。

 

自らの考えに執着している限り人間的思考の運動(快⇔不快)は動いているのである。故にその状態では半分を見、半分を見ないが故に全体をみる事はできない。全体を見なければ真理に到達することはできないのである。それを知って賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880のご法話

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、すべて各自の偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

真理というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままではみる事はできない。何故ならば、真理をみるには全体をみる必要があるからである。故に思考の運動を立ち上げて半分を見、半分を排除している人間には到底見えないのである。それを知って智慧ある修行者は、論争に赴かず自らの思考の運動を止めて真理をみたのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879のご法話

879 かれらはこのようにそれぞれの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を観る事はできないのである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げていると言う事は、いずれかの両極端を掴んでいるという事である。それらを掴んだままでは、全体を見る事が出来ないが故に真理を観る事が出来ない。その状態で真理に達した人であるという事はまさに本末転倒である。それをみて智慧ある修行者は、論争に赴くことなく自らの思考を止める事に集中せよ。誰かと組することなく、自らが真理を観ればいいからである。