スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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12月

スッタニパータ マーガンディヤ841のご法話

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

自らの人間的思考の運動(ある⇔ない)を止められない人々は、運動を止めてあるがままに観察しようと言う内心の観察について全く修行しようと言う気持ちがないのである。人間的思考の運動(ある⇔ない)がすべてを支配する人々にとって中道の教えが中々理解できないのは、その考えに固執する故にである。それを知って修行者は、その運動を止めた先に真理があることを知ってそれらの考えに固執することなく、あるがままに世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ マーガンディヤ839のご法話

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

世の人々のおおよその考えは、人間的思考の運動(ある⇔ない)と言う間違えた思惟によって運動している。すなわち教義が(ある⇔ない)、学問が(ある⇔ない)、戒律を(守る⇔守らない)、道徳を(守る⇔守らない)と言う人間的思考の運動である。それらの運動が起こると、教義によって執着(こだわり)が立ち上がり安らげず、学問によって執着が立ち上がり安らげず、知識によって執着が立ち上がり安らげず、戒律によって執着が立ち上がって安らげず、道徳によって執着が立ち上がり安らげないのである。あるいはその想いによって輪廻転生することになれば、本末転倒である。修行者は、それらの想いを捨て去って振り返ることなく、彼の岸へと到達せよ。

スッタニパータ マーガンディヤ837のご法話

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

当時のインドでは、生まれ変わりが信じられておりどのようにすれば、よい環境、望んだ環境で生まれ変われるのかを切望して生きる人がほとんどであった。実際に人々の転生の様子を視ると実に運動によって上下し、つまり、良かったり悪かったりしているのであるが、その運動は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって運動しているのである。例え、どのような生存状態を得られたとしても、生を得たならば死ぬ苦しみがあるのであって、それらを望んではならない。より高みを望めば、より深みが訪れる。修行者はそれらの喜びには苦しみが伴う事をよく観察をして、この迷いの生存状態を離脱し、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ マーガンディヤ835のご法話

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

世の人々は、異性を見た時にあるいは、恋愛対象としての対象を見た時に、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が立ち上がりその運動のまま行動をする。そしてその対象を得られれば、喜び、得られなければ悲しむ。それらは修行をしない人間の行動である。修行者は、その対象を見た時に自らに起こる危険を察知する。あるいは、自らに立ち上がる感情を観察し、その対象に対しての、執着、その先に起こりうる愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)を見抜き、それらを制して、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ834のご法話

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは、人間的思考の運動(勝ち⇔負け)を動かしながら「自分こそ勝利を得るであろう」と思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動(勝ち⇔負け)を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、人間的思考の運動の範疇に引き入れようと実現することは、とてもできない。

 

 

スッタニパータ パスーラ833のご法話

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

また聖者は対立を離脱して行い、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一つの見解をあるがままに見る。他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で人間的思考の運動(快⇔不快)を動かして掴んだ「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

スッタニパータ パスーラ832のご法話

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

かれは特殊な偏見=人間的思考の運動(快⇔不快)の見方によるかれが見出した真理、それらを掴み、固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、何ものをも掴むことなく手放し、こだわりを捨てたものこそ、真理を視る者だからである。

 

スッタニパータ パスーラ831のご法話

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

人間界のあるいは人間的思考の運動に基づいた分別それは、歓声を受け、あるいは王に褒められたものが優れていると見なされ、優れていると勇士は思い込んでいる。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに観る聖者は、全てを知るものである。かれに歓声あるいは誉め言葉が必要であろうか?それを求めるであろうか?かれはそれらの運動を解脱したところに存在しているのである。

スッタニパータ パスーラ830のご法話

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)が起こると、それに伴い感情が反応する。その心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは感情が動き、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「慢心によって清浄が達成される」とは説かないからである。人間的思考の運動(快⇔不快)を止めたところにこそ修行者が求めている世界が広がるのである。

 

スッタニパータ パスーラ829のご法話

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)の運動により称賛されると喜ぶ。この喜ぶ心は果たして利益であろうか?修行者は、この人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を視ることは出来ない。そういう意味では、喜びも悲観もたいして変わらないのである。それらを得たところで、苦しみを乗り越えることは出来ない。それらの運動を止めた中道を歩む者こそ苦に打ち克つ者なのである。