スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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12月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818の解説

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

 

ひとたび人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方が始まると、それは運動をするので、かれは諸々の欲の想いに囚(とら)われて、あるときはそれを得てあるときは得られず、運動の波が彼に襲いかかり、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817の解説

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

 

かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、淫欲の交わりを断つことを学べ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

かつては独りで暮らしていたのに、のちに人間的思考の運動(快⇔不快)によって淫欲の交わりに耽る人は、ふらつく運動を制してまっすぐ走れない車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ815の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制する教えを失い、煩悩の激流が彼に襲いかかり邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある動物的なことがらである。

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)がもたらす邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、特に執着して考えることがない。かれは人間的思考の運動(優⇔劣)を制しているので他のものによって清らかになろうとは望まない。両極端(優⇔劣)を欲することなく、かれは優を貪らず、また劣を嫌うこともない。

 

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、分けることもなく、汚されることがない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(生⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。分けて欲することがないので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が渦巻く世間から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。運動による迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応の仕方によって、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、運動によって、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、運動を止め、所有を捨てて行って、中道を歩み、安穏(あんのん)を見たのである。

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

 

この世は、常に変化し、無常である。「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。すなわちこの世界は空である。