スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

10月

スッタニパータ  死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもが人間的思考の運動による一方的な偏った見方で、かれを非難して貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその非難を特に気にかけることはない。かれの修行は、他の評価によって達成されるのではなく、かれ自身が常に自らの人間的思考の運動に注視し保たれているのである。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

 

かれには、子も、家畜も、田畑も、地所に対してのこだわり(執着)は存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものに対しても、執着は、かれのうちには認められない。人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により、好きなものを欲し、嫌いなものを排除しようとする。そうしてそれを得ては、執着し手放そうとしないのである。そして捨て去ったものに対してもあれこれ思うのである。世の中は無常であるので、常住を願えば苦を生じる。すなわちこの人間的思考の運動によって激流が生まれるのである。修行者はそれを知って、自らの人間的思考の運動による反応の仕方に常に気をつけ、激流を渡り彼の岸を目指すのである。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

この世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)にもとづいて諸々の欲望を求め諸々の欲望を顧慮(こりょ)する。聖者は人間的思考の運動を制し諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには欲望の呪縛より解き放たれ縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

スッタニパータ  死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

 

人間的思考の運動を制し執着をすることのない人は、理法すなわち欲するものには必ず逆(正反対)の作用(運動)がある事を知ってこだわることがないのである。かれには、生きてゆく上での願望に対する執着も、解脱するための妄執も存在しない。かれは、生⇔死と言う人間的思考の運動をも乗り越えて遂には彼の岸へ到達したのである。

スッタニパータ  死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない

 

 

 

 

心の運動は平静であって、自らの人間的思考の運動に対して常によく気をつけていて、人間的思考の運動である喜⇔悲の運動を制して、世間において他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。全てにおいて人間的思考の運動を制したかれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。人が人と比較対照するときそこには人間的思考の運動が渦巻く、勝れていると思えば喜び、劣っていると思えば悲観するのである。その両極端を追い求めて人は煩悩の激流を作り自らが溺れるのである。それを知って聖者は、人間的思考の運動を制して激流を渡り終わり遂には彼の岸へと到達したのである。

 

 

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

 

次に、人間的思考の運動をしている人間は、常に何かを得ようと欲している。そしてそれが得られれば、喜び、得られなければ怒るのである。聖者は利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。人間的思考の運動による妄執のために他人と敵対する意見をいうことがなく、人間的思考の運動である美味⇔不味の運動を制して美味に耽溺(たんでき)することもない。このように人間的思考の運動は起こり、修行者はそれを制するのである。

スッタニパータ  死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

人間的思考の運動を止めて快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また運動が止まっているので、高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。聖者は、この二元の運動(信⇔嫌)を制止したものだと知れ。この人間的思考の運動(快⇔不快)を止めることが出来ない人間は、快が得られれば耽溺し、高慢になる。常に何かを追い求めてその形相は獣の如く、ことばが荒々しく二元の運動によって何かを信じれば没頭するがそれは時間とともに変化するのでそれを嫌うこととなる。そうして煩悩の荒波を作っていくのである。聖者はそれを知って、この人間的思考の運動こそが、苦の根源だと言うことを知って、限りなくその運動が制止したときに安穏を観たのである。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

人間は、人間的思考の運動(快⇔不快)により遁欲(とんよく)を生じる。その運動を制し遁欲などから遠ざかり、それを欲して偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、得たものを慳(ものおし)みせず、快を得ても傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両極端の思考によって両舌(かげぐち)を事としない。すなわち、人間的思考の運動を制することが出来なければ、それらが生じるのである。修行者は、常に自らの人間的思考の運動の仕方に注意し、自らの動きに集中して、制御し、世の中の激流を乗り越えよ。さすれば、この世の中が、全く違う世界だと言うことに気づくであろう。まるで、物語の裏側を見るように思考が変わるのである。死ぬよりも前にその領域へ到達せよ。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

人間は、未来を想像して人間的思考の運動をする。すなわち、ああしたい、こうなりたいである。そして想像しては快を感じ、快を想像できなければ絶望感となり不快となる。そして現在生きながらも、感覚で触れるものすなわち、目、耳、舌、鼻、触、意識で感じたものに対して快⇔不快の運動をする。そして過去を思い出しては、あのときは良かった⇔悪かったとこれも人間的思考の運動である。見よ、全てが人間的思であり考煩悩の激流である。聖者は未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。そうして、遂には彼の岸へ到達したのである。

 

スッタニパータ  死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

人間的思考の運動を制したかの聖者は、両極端を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。怒りは、人間的思考の運動による不快にもとづいて生じ、誇りは、人間的思考の運動による快にもとづいて生じる。悪い行いは、快を貪り求めることから生じ、人間的思考の運動による激流によって浅はかな考えとなる。そして快を求めてそわそわするのである。その思考が不快に偏ったときにことばが荒々しくなる。それを知って聖者は、全ての人間的思考の運動を制して安らぎを観たのである。