スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

03月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

人間的思考の運動の呼び水ともなる一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過(ざいか)「あり」或いは罪過「なき」この宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいって思考の運動によりねがい求めることもなく、それら人間的思考の運動にとらわれずに観察を行え。ー安らぎさえにも固執することもなくそれらを手放すのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

人間的思考の運動(制戒を守る⇔制戒を守らない)を立上げて、もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえてそれらの想いを掴み、望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が不安になり隊商をもとめ見てければ安心し、家から旅立った旅人が不安になり、家をもとめ、見つけたならば安心するようなものである。このように人間的思考の運動(安心⇔不安)が立ち上がり、制戒を守るならば安心し、制戒を守らないならば不安となるような、思考の運動に陥るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、人間的思考の運動(制戒を守る⇔制戒を守らない)と言う流転する迷いの生存=運動に誘(ひ)き込まれている。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これら人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて掴むことはない。「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは同じ見方をした人々による僅かなものであって、人間的思考の運動(称賛⇔非難)が動いている状態では平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めた無論争の境地=中道を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

 

これらの自らの人間的思考の運動(真理⇔虚偽)による偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらは運動がもたらす、すべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じような運動の人々から称讃を博するだけである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

両極端に分けて、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは運動によって世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、自分の掴んだ道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動(快⇔不快)いよって確執(かくしつ)をもたらすであろう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に執着し、かの自分の道=思考の運動によって掴んだものを堅(かた)くたもって論ずる。故に真理から遠ざかるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

「このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、かれらが言う清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自らの人間的思考の運動(快⇔不)を立ち上げては、自己の偏見に耽溺(たんでき)して人間的思考の運動(快⇔不快)による汚(けが)れに染まっているからである。