スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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06月

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1059の解説

1057 「偉大な仙人のこのことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生!どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」

 

 

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、ーかれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸(ひがん)に達して、心の荒(すさ)びなく、疑惑もない。

 

 

 

人間的思考を制止して、所有欲を離れ、何ものをも所有せず、想いによって欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダ、修行の達人であるとそなたが知った人、ーかれは確かに人間的思考の運動を完全に制止して、この煩悩の激流をわたった。かれは彼岸(ひがん)に達して、心の荒(すさ)びすなわち人間的思考の運動による動揺もなく、理法を知り尽くして疑惑もない。

 

 

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1056の解説

1056 このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂(うれ)いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

 

 

このようにしていて、自らの人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ、怠ることなく中道を目指す修行を行う修行者は、過去の人間的思考の運動によって、わがものとみなして固執したものを捨て、また、生まれてきたいと言う想いすなわち生や老衰や無常の世界が生み出す憂(うれ)いや悲しみをも捨てて、この世で理法を知り智者となって、苦しみを捨てるであろう。

 

 

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1055の解説

1054 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えるでしょう。」

 

 

1055 師が答えた、「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

 

 

 

上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制止せよ。

それらに対する人間的思考の運動から生ずるところの喜びと偏った執着、快、不快の2つに分けようとする識別とを除き去って、変化するこの無常の生存状態のうちにとどまるな。

 

 

 

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1053の解説

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、そうかそれを説いてください。どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り超えるのですか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

 

 

 

1053 師が答えた、「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼(ま)のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに説(と)き明(あか)かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えよ。

 

 

伝承によるのではなく、私が実際に修行によって体得したこの理法をわたしはそなたに説(と)き明(あか)かすであろう。その理法を知って、よく自らの人間的思考の運動に気をつけて行い、世間の執著を乗り超えよ。諸々の賢者は、人間的思考の運動による反応の仕方を見極め制することによって煩悩の激流を渡り、執着を捨て去って生と老衰を乗り越え、理を知り憂いと悲しみを乗り超えたのである。

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1051の解説

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることであり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

 

 

その人間的思考の運動を知ることなくして執着をつくる人は、愚かであり、繰り返し苦しみに近づく。だからこの人間的思考の運動を知ることであり、この世は無常であると知ることなのである。執着が苦しみの生起の元だと感じた人は、執着によってこの苦しみの世界。すなわち無常の世界、失われる世界へ生まれてくるのであるから、再生の素因=執着を作ってはならない。若い頃の自分に戻りたいと思わないことだ。また、人生をやり直したいとも思わないことである。何度繰り返しても、それは失われていくのだと知って、この苦しみの世界へ生まれてきてはならない。

スッタニパータ 学生メッタグーの質問1050の解説

1049 メッタグーさんがたずねた、「先生!あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

 

 

 

1050 師(ブッダ)は答えた、「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著(しゅうじゃく)を縁として生起する。

 

 

 

世の中にある種々様々な苦しみは、執著(しゅうじゃく)を縁として生起する。人は、人間的思考の運動により、目の前に現れた現象に対して、快⇔不快にすぐに分け、その両極端の想いに執着をする。すなわち、快を貪り求め、不快を排除しようとする想いにである。しかしながら、この2つ(快、不快)は運動をするので、快を得られたとしても必ず逆の不快が目の前に現れる。それによって苦しみが、かれにつきまとうのである。

 

スッタニパータ 学生プンナカの質問1048の解説

1047 プンナカさんがいった、「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り超えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り超えた人は誰なのですか?先生!あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

 

1048 師が答えた、「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究(きわ)め明(あか)らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰(き)し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、ーかれは生と老衰とを乗り超えた、ーとわたしは説く。」

 

 

 

世の中で自らの反応の仕方を究(きわ)め明(あか)らめ、世の中で何ものにも両極端に動揺することなく、中道を守り安らぎに帰(き)し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、ーかれは生と老衰とを乗り超えた、ーとわたしは説く。この無常の世界に生まれてくるものは、目の前の出来事に対して両極端の反応をし、その状態にこだわって、その想いによって生まれてくるのであるから、自らの人間的思考の運動による反応の仕方を知りつくして、遂にはその運動を制して修行者よ、彼の岸へ到達せよ。

 

 

スッタニパータ 学生プンナカの質問1046の解説

1045 プンナカさんがいった、「先生!およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀(さいし)の途において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1046 師は答えた、「プンナカよ。かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁(よ)って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、この世の生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」

 

 

かれらはこの変化ある世界を希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁(よ)って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、この世の変化ある生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。かれらは、その想いによってこの変化ある世界にまた生まれてくるので生や老衰をのり超えていない。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を制しようとはせず、逆に両極端を追い求めているのであるから、どうして生と死を乗り越える事ができようか? とわたしは説く。」

 

スッタニパータ 学生プンナカの質問1044の解説

1043 プンナカさんがたずねた、「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしようと思って、参りました。仙人や常の人々や王族やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧(ささ)げたのですか?先生!あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1044 師(ブッダ)は答えた、「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

 

 

プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、現在の状態すなわち「うつりゆく変化の世界」において、常住を切望し、現在の状態にこだわり、神々の力に頼ろうとして犠牲を捧げたのである。この世の中は変化の世界であり、何人たりとも常住を欲するは、苦である。かれらは両極端である快の状態を保とうと様々な事を行うが、それは運動をするので必ず反対のものが現れる。若い者は老いる。すなわち若さにこだわることは苦である。無明に覆われた人々は、理を知らずして盛んに犠牲を捧げるのである。

 

スッタニパータ 学生ティッサ・メッテイヤの質問1042の解説

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは〈偉大な人〉と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

 

 

 

かれは、人間的思考の運動すなわち両極端の運動である自らの快、不快の反応の仕方を知りつくして、どのような時に、自らがどのような反応をするのかを知る。かれは、快でも、不快でも、また快でも不快とも感じないものに対しても執着をしないので、汚されない。かれは、この世に存在する様々な執着の対象を見極めて、知りつくし、もはやこだわることはなく、遂には彼の岸へ到達したのである。