スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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06月

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

諸々の事物に関して人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、たより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執(しゅう)することもなく、掴まないが故に、捨てることもない。かれはこの世にありながら自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一切の偏見を掃い去っているのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対して分けることなく、全てを見る。あらかじめいだいた偏見が存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれは、もはや、何ものをも掴むことなく、たより近づくものがないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、全体を見る目で、諸々の事物に関する固執はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)=人間的思考の運動(快⇔不快)のうちにあって、不快と感じては、ものごとを斥(しりぞ)け、また快と感じては、これを執(と)る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句784の解説

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、両極端の運動によって、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。故に平安と不安とを繰り返す人間的思考の運動(快⇔不快)となるのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783の解説

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。

 

 

 

修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉=〈中道を歩む人〉である、と心理に達した人々は語る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。

 

 

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、両極端の思考である称賛を求めて、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」=人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人である、と真理に達した人は語る。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、人間的思考の運動(快⇔不快)が動いたまま、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろうが、思考の運動によって全体を見ていないので、真理を見る事はできないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

 

実に悪意をもって他人を誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って他人を誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。聖者は、自らの人間的思考の運動である(快⇔不快)を制して両極端に赴かない。そして、他者からの影響を受けることもなく、あるがままに観るが故に心が動揺することもない。故に聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制してよく心を観察し、想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、両極端を制して、所有したいという執着に汚されることなく、中道を歩み、煩悩の矢を抜き去って、気をつける事につとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。そうして彼の岸へと到達するのである。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端に対する欲望を制し、観察によって感官と対象との接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。かれはあるがままに見るからである。