スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

ねがい求める者には人間的思考の運動(安心⇔不安)による「安心」を求める欲念がある、また、はからいのあるときには、人間的思考の運動(安心⇔不安)による「不安」であるおののきがある。この世において死も生も在しない者=人間的思考の運動である両極端を手放している者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままでは、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存(生まれ変わればまた死ぬ運命)のうちにある。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

自らの人間的思考の運動を止め、一切の戒律や誓い(安心⇔不安)をも捨て、世間の罪過(ざいか)「あり」或いは罪過「なき」この(宗教的)行為(あり⇔なき)をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいって(清浄⇔不浄)ねがい求めることもなく、それらにとらわれずに中道を歩んで行え。ー安らぎを固執する(安らぐ⇔安らげない)こともなく。全ての思考の運動を止めるのである。そうして、観察することによってのみ真理を見る事ができるのである。思考の運動を止めない限り、あなたの「あわただしい毎日」は終わることなく続くであろう。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、人間的思考の運動(安心⇔不安)が立ち上がり、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて人間的思考の運動(安心⇔不安)である「安心」を望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからないならば人間的思考の運動(安心⇔不安)が立ち上がり、「不安」となり、見つかったならば「安心」する。家から旅立った旅人が家がないならば「不安」となり、「安心」するために家をもとめるようなものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま〈真理に達した者〉と称する人々は、その運動の反復によって流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端を手放しており「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、自らの人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めない限り平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、思考の運動を止めた無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

これらの偏見を固執して、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま「これのみが真理である」と宣説する人々、ー思考の運動を止められず真理を見る事ができていないかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同様の思考の運動を持つ人々から称讃を博するだけである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

一方的に分別し、決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

思考の運動を立ちあげだまま自分の道を堅くたもって論じているが、立ちあげたままの修行者がここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動(快⇔不快)を制していないが故に確執(かくしつ)をもたらすであろう。