スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 老い806のご法話

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人がわがものと考えるものそれは、一時的なものである。この世は無常であるから、人が死ねば全てが失われる。人が何かを掴めば、人はその想いによって無常の苦の世界へ生まれてくるのであるから、何かを掴むことは苦である。修行者は、それを知って、何かを掴みたいと言う、迷わせる想いを捨て去って、何ものも掴むこともなく、全てを手放して、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 老い805のご法話

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

在家とは何か?それは、何かを手に入れるため、あるいは掴むために、動き回ることである。しかし、この世は無常であるから、手に入れたものは必ず失われる。その想いが強ければ強いほど苦しむのである。それを知って修行者は、その想いを手放し、何ものも掴むことなく、この世の理法である無常を観察して、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 老い804のご法話

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

生まれたものは必ず死ぬ運命にある。それは、人間的思考の運動(生⇔死)の運動でもある。人間は、想いによって生まれ、迷いのうちに死ぬ。生には必ず死が伴う事を知って、修行者は、生を掴んではならない。生には死が伴うものである。たとえ生まれてきた時は若くても、必ず老いに襲われ、死ぬのである。それを知って、修行者は、生を掴むことなく、死を手放して遂には彼の岸へと到達するのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803のご法話

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)がもたらす妄想分別をなすことなく、分別していずれか一つの偏見を特に気に入り掴むということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。かれは、自ら目の当りに見る理法によって全てを知り、輝いている。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802のご法話

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも制し、妄想(もうそう)を構(かま)えていない。いかなる偏見=人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?かれは、自らの思考を制し、解放されているのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801のご法話

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

修行者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による両極端の執着を制し、彼の様々な輪廻転生のパターンによる生まれ変わりや両極端による来世への願望を捨て去り、目の前の現象に対しても、両極端の断定である人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応の仕方は存在しない。かれこそは中道を歩む者である。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800のご法話

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、執着することなく、学んだ事柄についても依存することはない。世の人々は、それぞれの分別によって党派に分かれているが、修行者は、両極端の誘惑に打ち克ち、両極端に組することなく、あるがままに世の中を見、中道を歩む者である。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799のご法話

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

修行者は、智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努め、分別に赴いてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考える事も人間的思考の運動(優⇔劣)の運動なのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人の人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が動いてあるものに依存しその他のものはつまらぬものであると見なすならば、それは実に実に思考の運動によるこだわりであると真理に達した人々は語る。故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわることなく、怠ることなく自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して分けずにあるがままに、観察をし、気づきと智慧によって真理を知るのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別した見方の内のみに優れた実りがあると考え、その考えに執着をしてそれ以外のものを全てつまらぬものとみなす。故にかれらは真理を視る事ができない。真の修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、排除することなく全体をあるがままに視て真理を知り、彼の岸へと到達するのである。