スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 迅速920の解説

920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。

 

 

海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、人間的思考の運動を静止して不動であれ。修行者は何ものについても両極端に分けることがないようによく気をつけ、欲念をもり上らせてはならない。

 

スッタニパータ 迅速919の解説

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

 

 

 

修行者は、心のうちにある人間的思考の運動を止めて平安となるのだ。外に静穏を求めて「安心」⇔「不安」の運動をしてはならない。外に求める人間には、「安心」と言う失われる状態に執着をするが、この世は変化する世界であるので、その状態は儚くも崩れ去る。逆に内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。人間的思考を制して執するものがなく取るものがない修行者にどうして捨てられるものがあろうか。

スッタニパータ 迅速918の解説

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。

 

 

 

慢心によって『自分は勝れている』と思うことそれは人間的思考である。そう想っては喜ぶのである。また、劣っていると思えば消沈し、喜⇔消沈の運動をする。また、『自分は等しい』とか想って「安心」してはならない。この運動も「安心」⇔「不安」という人間的思考の運動だからである。実に人間は、この人間的思考の運動を繰り返し、煩悩の荒波を創っていくのである。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずに中道を保ち安穏に至るのだ。

 

スッタニパータ 迅速917の解説

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

 

 

 

人間的思考には様々な運動の仕方があるが、内的にでも外的にでも、いかなる運動の状態をも知りぬけ。しかしそれを知ることによって慢心を起こしてはならない。慢心を起こすこともまた、人間的思考であるので気をつけよ。人間的思考の運動をしているうちは、安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

スッタニパータ 迅速916の解説

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

 

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「われは考えて。(有る⇔無い)という迷わせる不当な人間的思考の運動である根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執すなわち二元の運動をもよく制して導くために、常に心して学べ。人間は、この世の中において、生起と、消滅するのを見て、「有る⇔無い」と言う両極端の思考に至るのである。この運動が人間の根本煩悩であり、執着のもとである。修行者は、この運動を制する技術を常に心して学び世の中にはびこる執着をのりこえ安らぎに至れ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇914の解説

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して人間的思考の運動を止め両極端(快⇔不快)に分けることがないので、敵対することがない。かれは両極端に分けて執着をするような負担をはなれて解放されている。かれは、人間的思考の運動を止めているので、何かを気にして、快を得るために、はからいをなすことなく、両極端に分けることもないので、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。かれは全ての人間的思考の運動による反応を制して安らいでいる。   ー師はこのように言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇913の解説

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

 

人間には、いくつかの汚れが存在する。それは、人間的思考で分別した汚れであり、煩悩である。過去において、人間的思考の運動により、分別した、記憶を蓄積している。それによってすぐさま快、不快に分け、執着をするのである。そして、新しく目の前に現れたものに対しても、人間的思考の運動により分別し、その分別した欲にもとづいて、執着して論ずるのである。賢者は、過去に分別した記憶を捨て、それにとらわれることなく、新しく分別することもない。分けないので、欲におもむかず、執着して論ずることもないのである。諸々の人間的思考の運動がつくる偏った見方を離脱して、世の中における人間的思考の運動が作り上げた常識に汚されることもなく、自分を責めるような過ちを犯すこともない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

人間は、「安心」⇔「不安」という人間的思考の運動を繰り返し、多数派に、くみして「安心」を得るべく党派にくみする。自らの好みにとらわれ、束縛され、雁字搦めである。聖者は、この世の中において、諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときも、「安心」を求めることなく、党派にくみすることもない。かれは人間的思考の運動をしている人々の中にあっても、安らげく泰然として執することがない。他の人々は、人間的思考の運動にとらわれて執着しているのだが。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

人間は、妄想分別により、ものごとをすぐに快、不快に分け、自らの好みにもとづいた判断をする。そして、諸々の見解を立てるのである。聖者は、自らの人間的思考の運動を制し、妄想分別に赴かない。人間的思考による偏った考えに流されず、知識にとらわれることもない。かれは、人間的思考の運動を続けている人々が立てる諸々の偏った見方を見て、これは、このような運動によりこのような見解になると知り、執着することはない。人間的思考の運動が止められない人々は、それに執着をしているのだが。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動を制せず、自らの見方すなわち「われは知る」「われは見る」ということに執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依存して知ることがらのみが適正であると説き、そのことがらにのみ清浄となる道と信じ込んでいる論者は、そのようにかれの人間的思考の運動の好みにもとづいて一方的に見たのである。聖者は、自らが知り得たこと、見たことがらについても、人間的思考の運動を制し執着をしない、ゆえに聖者は、安穏に満ちているのである。