スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 学生プンナカの質問1046のご法話

1045 プンナカさんがいった、「先生!およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀(さいし)の途において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1046 師は答えた、「プンナカよ。かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁(よ)って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、この世の生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」

 

 

師は答えた、「プンナカよ。かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁(よ)って両極端の欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、両極端を求めながら、この世の生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。運動を止められないかれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」

スッタニパータ 学生プンナカの質問1044のご法話

1043 プンナカさんがたずねた、「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしようと思って、参りました。仙人や常の人々や王族やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧(ささ)げたのですか?先生!あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1044 師(ブッダ)は答えた、「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、人間的思考の運動(優⇔劣)により、われらの現在のこのような生存状態を希望して、人間的思考の運動(若⇔老)を立ち上げて、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」それらによって一時的に何かを得たとしても、思考の運動を止めない限りこの無常の世から逃れる事は出来ないのである。

スッタニパータ 学生ティッサ・メッテイヤ1041,1042のご法話

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、「この世で満足している人は誰ですか?動揺することがないのは誰ですか?両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない、聡明な人は誰ですか?あなたは誰を〈偉大な人〉と呼ばれますか?この世で縫(ぬ)う女(妄執)を超(こ)えた人は誰ですか?」

 

 

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関しては清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけ、究め明らめて、安らいに帰した修行者、ーかれには動揺は存在しない。

 

 

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは〈偉大な人〉と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関しては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、清らかな行いをまもり、両極端がもたらす妄執を離れて、思考の運動につねに気をつけ、自分の癖を究め明らめて、安らいに帰した修行者、ーかれには両極端の動揺は存在しない。かれは自らの運動である両極端を知りつくして、よく考えて、両極端にもそれらを制すると言う想いである中間にも汚されない。かれを、わたしは偉大な人と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。かれこそは中道を歩む者である。

スッタニパータ 学生アジタの質問1039のご法話

1038 「この世には真理を究(きわ)め明(あき)らめた人々もあり、学びつつある人々もあり、凡夫(ぼんぷ)もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」

 

 

1039 「修行者は諸々の欲望に耽(ふけ)ってはならない。こころが混濁(こんだく)していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

 

 

「修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努める事に専念し、諸々の欲望に耽(ふけ)ってはならない。過去或いは未来の想いをも制し、こころが混濁(こんだく)していてはならない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目でよく現象を観察し、一切の事物の真相に熟達し、自らの想いによく気をつけて遍歴せよ。」

スッタニパータ 学生アジタの質問1037のご法話

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか?おたずねしますが、そのことをわたしに説いてください。」

 

 

1037 「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅(しめつ)することによって、名称と形態とが残りなく滅(ほろ)びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

 

 

「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、識別作用が止滅(しめつ)することによって、名称と形態とへ対する想いが残りなく滅(ほろ)びた場合に、この名称と形態とが滅びる。この無常の世は想いによって形成されるからである。

 

スッタニパータ 学生アジタの質問1035のご法話

1034 アジタさんがいった、「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか?その流れを防ぎまもるものは何ですか?その流れは何によって塞(ふさ)がれるのでしょうか?それを説いてください。」

 

 

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけることである。気をつけることが煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目でみるところの観察がもたらす智慧によって塞(ふさ)がれるであろう。

スッタニパータ 学生アジタの質問1033のご法話

1032 アジタさんがたずねた、「世間は何によって覆(おお)われているのですか?世間は何によって輝かないのですか?世間を汚すものは何ですか?世間の大きな恐怖は何ですか?それを説いてください。」

 

 

1033 師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は無明(むみょう)によって覆われている。世間は貪(むさぼ)りと怠惰(たいだ)のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

 

 

師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来ない無明(むみょう)によって覆われている。世間は、それらの運動がもたらす貪(むさぼ)りと怠惰(たいだ)のゆえに輝かない。運動によって立ち上がる欲心が世間の汚れである。無常、すなわち変化によって立ち上がる苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、全体を見ることによって無明を克服し、真理へと歩むのである。

 

スッタニパータ サーリープッタ975のご法話

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱(げだつ)して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」

 

 

修行僧は、よく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけて、心もすっかり解脱(げだつ)して、これらのものに対する欲望(運動)を抑制せよ。かれは適当な時に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、理法を正しく考察し、心を統一して、無明を撃破し暗黒を滅ぼせ。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で現象と心を観察した時に初めて理法を視る事ができるのである。

スッタニパータ サーリープッタ974のご法話

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらから入る人間的思考の運動(快⇔不快)を制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。美しい⇔醜い、快音⇔嫌音、美味しい⇔不味い、いい匂い⇔臭い、快⇔不快と言う反応の仕方を制することである。

スッタニパータ サーリープッタ973のご法話

973 他人からことばで警告されたときには、心をおちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒(すさ)んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

 

 

他人からことばで警告されたときには、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が動かないようによく気をつけ、心をおちつけて自らの心を観察せよ。ともに修行する人々に対する荒(すさ)んだ心で反応してはならない。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。これらは、全て人間的思考の運動(快⇔不快)のままに感情が反応して起こるからである。運動を制しない限り真理を視ることは出来ない。