793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
人は目の前に現れる事で人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって心が両極端に動揺するのであるが、真の修行者は、自らが見たり、学んだり、思索に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、中道を保っている。そのように観じ、煩悩に覆われることなくふるまう人々は、妄想分別に赴かず寂静に帰しているのである。
suttanipata
info@suttanipata.com
793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
人は目の前に現れる事で人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって心が両極端に動揺するのであるが、真の修行者は、自らが見たり、学んだり、思索に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、中道を保っている。そのように観じ、煩悩に覆われることなくふるまう人々は、妄想分別に赴かず寂静に帰しているのである。
792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。
修行の在り方について、修行者は、何かを掴もうと誓戒を決めて実践したり、あれこれ想像して様々な修行をしようとするのであるが、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めてあるがままに観察をする修行者は、目の当たりに視る気づきによって知り、真理を見極めて様々な修行の仕方を試そうとしないものである。要は、何かを掴もうとして動くのではなく中道を保って、真理を知ることこそが悟りへの第一歩だと言う事なのである。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により、どの師が良いだろうか?などと師を貪り求める修行者は、自らの運動を制することが出来ていない。それは、人間的思考の運動による煩悩の動揺である。智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動を制して、師などに頼り近づくことなく、自らの運動を制することによってあるがままに教えを見る。修行者の教えは目の前にあり、気づきによって中道を歩み遂には彼の岸へと到達するのである。
790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
世の人々は、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想を見たり聞いたりしてはそれらを、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分けては、それらを掴み、また捨てる。そうしては禍福の因を作っていく。真の修行者は、それらを掴むことによって、清らかになるとは説かない。修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)に常に気をつけ、それらの見方を捨て去って、両極端に汚されることなく中道を歩み遂には清らかになるのである。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
世の人々は、教えや、知識をも人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別し、それらを頼り、あるいは掴んで苦しみを逃れよとする。修行者は知るべきである。それら掴んだもの、頼ったものには苦しみがついてまわることを知って、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止める事を常に気をつけ日々精進することによって遂には進むべき道が見えてくるのである。
788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
人は、どこか素晴らしい能力を持っている他人、あるいは師を見つけては、あの人は凄い、あるいは、あの人が言う事は正しいと、頼り近づく。それらの人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による見解によって最上の智慧がもたらせられると思い込んでいる。聖者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めた観察によってのみ智慧がもたらされることを知り、頼り近づくことなく、自らを追究し遂には彼の岸へと到達するのである。
787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)にもとづいて何かを掴もうとする人々は、この世の中ではおおよそ半分の人々は、反対の意見、あるいは反対の見方をするのであるから誹りや噂は免れないのである。それらの思考の運動を制し、あるがままに全てを見る修行者は、何かを掴むこともなく捨てることもなくそれらの束縛から解放されているのである。
786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して中道を歩む修行者は、分別による偏った見方は存在しない。故にあるがままに、物事を見て、真理を知り、分別によって何かを掴もうとしないが故に頼る対象もなく、また生まれたいと言う強い想いもない。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。
人の見解と言うものは、それぞれの反応の仕方すなわち人それぞれの人間的思考の運動(正⇔誤)によって立ち上がるのであるから、自らのこだわりが人間的思考の運動によるものであると見極めて自らのこだわりである執着を乗り越える事は容易ではない。世の人々は、それぞれの人間的思考の運動である分別によって排除し、あるいは掴むことを繰り返して生活しているのである。
784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
真の修行者は、比較対象しない。それは、人間的思考の運動(優⇔劣)だからである。自分が勝っていると思っては喜び、他人が劣っていれば喜ぶ。その喜びを得るためには手段を択ばない。それらは運動による一時的な喜びであるから運動によって優越感は劣等感へと変化する。故にゆらぐものなのである。他人より優れているから真理を視るのではない。他人より劣っているから真理を視れないのではない。それらの運動を制して、全体を見る事ができた時に、真理を視る事ができるのである。