スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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09月

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。人間的思考の運動(快⇔不快)を追いかける迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、わがものとして執着したものを貪り求める人々は、その両極端への想いがもたらす憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有=想いを捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。それらの真理を見て、人間的思考の運動(快⇔不快)による無常への想いを捨て去り観察に努めよ。

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、無常に気づき、真理を見よ。この世にこだわるべきものは何もないのである。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた中道による観察により、この理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は人間的思考の運動(快⇔不快)によって「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と真理を見て、運動がもたらす在家にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この真理を見たならば、修行者よこの無常の世に執着をしてはならない。それらの想いを手放し、戻らないようにせよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの「偏見=両極端への想い」を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって両極端に導かれることもない。このような人は、中道を歩み彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの「妄想(もうそう)=人間的思考の運動(快⇔不快)」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、何かを掴もうと願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して「得た=掴んだ」固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。かれは、全てを手放しあるがままに見るものだからである。