スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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09月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821の解説

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

聖者はこの世で前後にこの「災い=運動の連鎖」のあることを知り、「独りでいる修行=中道」を堅(かた)くまもれ。両極端による淫欲の交わりに耽ってはならない。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820の解説

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも「淫欲の交わりに耽った=中道を踏み外した」ならば、両極端による誘惑に陥り愚者のように悩む。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819の解説

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

そうして他人に詰(なじ)られた時には別の人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がり虚言に陥(おちい)る。すなわち、「自らを傷つける刃(悪行)=運動の連鎖」をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818の解説

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、中道を守れてないと他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817の解説

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

ひとたび淫欲の交わりに耽ったならば、かつてかれのもっていた「名誉も名声=中道による真理を見る眼」も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は、淫欲の交わりを断つことを学べ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りで暮らしていたのに、のちに両極端を求めて淫欲の交わりに耽る人は、車が中道と言う道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。この道理を見て修行者は、自らの思考の運動を止める事に集中すべきである。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ814の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う教えを失い、両極端を求めて邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある何か(苦)を掴もうとする卑(いや)しいことがらである。

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げることもなく、執着して考えることがない。かれは何かを掴んで他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、両極端の対象を貪らず、また嫌うこともない。このようにあるがままに見るものなのである。

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、見たり学んだり思索したどんなことについても、両極端に近寄ることを制するが故にそれらに汚されることがない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

聖者はなにものにもとどこおることなく、自らの人間的思考の運動(愛⇔憎)を制して、愛することもなく、憎むこともない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して近づかないが故に悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように中道を保って、汚れを回避せよ。