スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2020年

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

目の前に現れる現象に対する思考すなわち諸々の事物に関する固執はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着に気づいて超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)ることを繰り返す。修行者は、自らの心の動きをよく観察し、気づきをもってそれらを制するのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句784の解説

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)に基づいた、一方的な見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、運動によってその見方は変化していくのであるから、ゆらぐもの=運動によって変化する一時的なものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783の解説

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。

 

 

修行者が、自らの人間的思考の運動を制して、思考を止める事で、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって心が動く事がないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは高貴な人である、と真理に達した人々は語る。

 

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。

 

 

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらし人からの誉め言葉である快を求めるのであるから、かれは「人間的思考の運動(快⇔不快)による運動が止められない人」である、と真理に達した人は語る。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が立ち上がり、欲にひかれ、好みにとらわれている人は、その思考の運動をしていてどうして自分の偏見を超えることができるだろうか?かれは、自らの人間的思考の運動による分け方を完全であると思いなしている。この思考の運動を止めないかぎり、半分を見ないのであるから、真理を完全に見ることはできないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

実に人間は、人に対しても分別しようとする思考が働く、それは、良し⇔悪し、という人間的思考の運動である。その分別により、他人を誹る言葉が生まれる。あるいは他人から聞いた言葉によって分別し、誹る言葉が生まれる。聖者はその人間的思考の運動すなわち分別を制し、分けない。故に誹る言葉、あるいは思考によって心が荒むこともなく安らぎに帰しているのである。

 

 

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

目の前に広がる現象とその現象に対する自らの反応の仕方すなわち想いを知り尽くして、その想いから来るところの煩悩による激流を渡れ。聖者は、無常を感じて、所有したいという執着に汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、自らの心を観察することに努め励んで、修行を行い、それら煩悩による想い、すなわちこの世に対する人間的思考の運動による想いを制しあるいは、人間的思考の運動によるかの世への想いをも捨てて、望むことは無い。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は人間的思考の運動(快⇔不快)により発生する両極端の欲望を制し、現象とそれを感受する感覚器官による反応の仕方すなわち現象に対して、両極端の反応をし、それが感情へ伝わって思考が生まれるすべを知り尽くして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらをあるがままに観察し、真理を視たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777の解説

777 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

人は、何故動揺するのか?それは、失われるものに執着をしているからである。人は本能的に執着の対象が失われることを知っている。故に動揺するのである。それは、あたかも水の少ないところにいる魚の如く、いつ失われるかわからない水を求めているようなものである。それを知って修行者は、対象に対して、わがものという想いを捨て去って、対象を掴もうとせず、それを手放して、無常を感じながら、あるがままに世の中を遍歴し、遂には真理を視たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776の解説

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

 

 

世の人々は、現在の生存状態を望んで、あるいは掴んだものを離そうとしないが、この世は変化があり、あるいは無常であるので、必ず手放すときは訪れる。それは、どんなに輝かしい生存状態でも、いかに手放したくない生存状態でも同じである。それを知って、聖者は、何かを掴むこと、あるいは離さないことは苦であるという事を知って、この世の無常を感じて、掴むことなく、あるがままに世の中を遍歴し、遂には安穏を観たのである。