スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

 

諸々の事物に関して両極端に分けて近づく人々は、あれこれの誹り、噂さを受ける。人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは、両極端に分けないので、執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を掃い去っているのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた分ける思考が存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を掃(はら)い除いた人は、両極端を求めることもなく、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうしてまたこの世界に生れようという想いすなわち輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはや中道を極めて求め近づくものがないのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

 

諸々の事物に関する固執は、これこれこのような人間的思考の運動のものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの人間的思考の運動(快⇔不快)のうちにあって、両極端の反応をして、不快と感じたものを斥(しりぞ)け、また快と感じたものを執(と)る。このような運動をしているものだと知れ。

 

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句784の解説

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

 

自らの人間的思考(快⇔不快)の運動による反応の仕方にもとづいた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよるすなわち人間的思考の運動(平安⇔不安)による平安に執着しているのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句783の解説

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。

 

 

 

修行僧が人間的思考の運動を止めて平安となり、心が安静(中道)に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇り心が人間的思考の運動をすることがないならば、世の中のどこにいても両極端の煩悩がもえ盛ることがないのであるから、かれは仏性に近づいた人である、と心理に達した人々は語る。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と心理に達した人は語る。

 

 

 

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「人間的思考の運動(快⇔不快)による快(快適な言葉)を欲する人」である、と心理に達した人は語る。かれは、他人からの褒め言葉を欲し、いわゆる聞くことによる快を欲した想いによる行動、すなわち、身(行動)口(言動)意(想い)の三業が現れたのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により欲にひかれ、運動による好みにとらわれている人は、どうして自分の分ける見方である偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずからその人間的思考の運動による分け方が完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろうが、かれなりの人間的思考の運動による分け方であり、迷いの激流の渦中に在するのである。

スッタニパータ  悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

実に人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をもって他人を誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の反応の仕方が立ち上がり他人を誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者は両極端に近づかない。だから聖者は何ごとについても人間的思考の運動を制して心の荒(すさ)むことがない。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

人間的思考の運動が創り出す想いを知りつくして、両極端の激流を渡れ。聖者は、人間的思考の運動による想いを制して、所有したいという執着に汚されることなく、両極端による煩悩の矢を抜き去って、人間的思考の運動を制する事につとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。中道を歩み彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は、人間的思考の運動(快⇔不快)による感官と対象との接触を知りつくして、両極端に対する欲望を制し、それらを貪ることなく、自責の念にかられるように貪り求めて悪い行いなどをしてでも手に入れようとなど考えず、それらの想いを制し、何事においても、見聞することがらに汚されない。そのように自らの反応の仕方を制し、自らに打ち克つものである。