スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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豆知識

八正道(正定)の解説

欲望を制御して、精神統一につとめる。
人間的思考を止め、六根から感じるすべての情報を仏様に集中する。
心が乱れそうになったら戻す、戻すとつねに心がけて集中する心を養う。
もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心ひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足にして住するという。だがやがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内清らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも心ひかれることなく、ただ三昧よりより生じたる喜びと楽しみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼はその喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまたかれは、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するというこれを名付けて正定と言う。

 

正定とは何か?何故心がうろつくのか?それは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が常に反応しているからである。故に心がうろつく。この運動を止めて、集中をする。すなわち中道を保って集中をする事こそ正しい定なのである。この修行が進むにつれ中道を保つことへの理解が深まり、喜びが生じる。その想いをも制し、観察によって、心の状態を見る。すなわち、念、慧=気づき、楽しみである。そののち想いの清らかな境地、時を感じるままに、無常を感じ、この境地を保つのである。これが正定の境地である。

八正道(正精進)の解説

正しい努力、正精進
善悪に対して正しい判断をして対処する努力
いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力をする。あるいはすでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力する。あるいはいまだ生ぜざる善きことを生ぜしめんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力する。あるいはまた、すでに生じた善しきことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志を立てて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振るい起こして努力するこれを名づけて正精進と言う。

 

人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)のままに生きるのが常である。修行者は人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努め励むことこれこそが正精進なのである。常に自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を見張り制して、中道を歩む。その時に気づきを得、真理を見るのである。

八正道(正命)の解説

正しい生活、正命
衣食住について貪らず、適正な生活。
よこしまな生き方を断って、正しい出家の法を守って生きるこれを名づけて正命と言う。

 

人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって、貪り求め、あるいは排除しようとする。これが邪な生き方なのである。修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、中道を守った生き方あるいは自らの命を維持する。それによって命の何たるかを知り、真理を得る。これをもって正命と呼ぶのである。

八正道(正業)の解説

正しい行い、正業
殺生、盗み、不倫、などよこしまなことをしない。
殺生を離れること、与えられざるを盗らざること、清浄ならぬ行為を離れことを名づけて正業と言う。

 

人間は、行動を起こすとき、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって、行動をする。故に行いが暴走するのである。修行者は、常に自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によく気をつけ行動する。それによって、邪な想いから離れ、あるがままに遍歴し、真理を見る事ができるのである。それをもって、正業と呼ぶのである。

八正道(正語)の解説

正しい語、正語
うそいつわり、そしり、荒々しい言葉を止める。
人間的思考を止め、遠回しに策したことばを使わない。
偽りの言葉を離れ、中傷する言葉を離れ、麄悪な言葉を離れ、雑穢(けがれ)なる言葉を離れることを名づけて正語と言う。

 

正しい語、正語とは?人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって、何か(好きな)を求めるとき、それが手に入るように策した言葉を使う。あるいは嫌いなものを遠ざけようと、策した言葉を使うのである。修行者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止め、よく気をつけて言葉を発する。その時に初めて気づきを得、真理に達する。これをもって正語と言うのである。

八正道(正思)の解説

正しい思惟、正思
煩悩を離れること、憤りの心をおこさないこと、傷つけないことなどを常に心がける。
人間的思考を止め、よく気をつけ、分けない心で正しく思惟する。(反対の意見も受け入れる心を持つ鏡のような心)
迷いの世間を離れ、悪意から離れ、他者を害したいと言う想いから離れる心を名づけて正思と言う。

 

正しく思惟するとは?人は人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によつて、自らの好みに基づいて判断をする。故に反対の意見を聞こうとしないのである。この人間的思考の思惟もやはり見ているものは好きな物ばかりであって、その事ばかりを想い巡らず。それでは全体を思惟することは出来ないのである。故に真理を見る事ができない。修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し全体をあるがままに思惟することによって、気づきを得、それが真理となる。これをもって正思と言うのである。

八正道(正見)の解説

正しい見解、正見
真理に対してありのままに見る。
人間的思考を止め、分けない心でありのままに見る。(好みにとらわれず全てを受け入れて見る鏡のような見方)それによって、苦の生起の元を知り、苦を滅する方法を知り、苦の滅尽に至る道を知る事を名づけて正見と言う。

 

人間は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって、好きなものは見ようとするが、嫌いなものは見ようとしない。故に全体を見る事ができないのである。全体を見る事ができなければ、真理を見る事ができない。正見とは、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、分けずに、あるがままに見る事である。その時に初めて、正しく見る事ができる。それを正見と呼ぶ。

人はなぜ苦しむのか?

お釈迦様がスッタニパータで説かれたものそれは、人々が苦しみから脱出する方法です。

人は、物事をすぐに、好き、嫌いに分けて、好きなものを取ろうとして、嫌いなものを排除します。あるいは、自分の理想にこだわってその状態を何とか保ちたいと思うのです。しかし、この世は、無常つまり、常に変化すると言う性質がありますから、同じ状態にこだわると状態は変化しますから苦しみます。あるいは、好き⇔嫌いと言う運動も起こりますので、何かを好きだと思って掴むとそれは苦しみも同時に掴むことになります。世の中の人々の苦しみは、このようなこだわりによるものだとお釈迦様はおっしゃっているのですね。人々は、すぐに両極端に分けて好きなものに飛びつくので、そのものの性質がわからずに苦しみにも飛びついているわけです。

そこで、お釈迦様は、まず、自分の好き、嫌いと言う運動によく気をつけて、その思考を止める事を教えられました。つまり、欲しいと言う思考を止めて掴まない事。それは、苦しみを掴まない事だからです。

そして、その思考を止めた目で分別する対象をよく観察すると、その対象の性質がわかってきます。それは無常だと言う事。つまり掴んでも一時的だと言う事。それは変化し、いずれ自分のもとを離れますから、対象に執着をすることは苦しみだとわかります。これが智慧です。

更に自分の心を観察すると。ある想いが立ち上がって、時間と共に消滅することがわかります。つまり心も変化する。無常ですね。ですから、心も一時的な想いにこだわったり、同じ状態に執着をすると苦しむと言う事がわかります。

お釈迦様は世の人々が苦しみから脱出するには、まず、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止める事。次にその止めた目で対象、あるいは自分の心をよく観察することで、対象の性質がわかり、自分の心の性質もわかり、何かを掴もうとせず、手放す事。それが人が苦しみから脱出する唯一の方法と教えられたのです。

事・行・理の供養(三福道)について

よく在家の解脱への道として、事(じ)・行(ぎょう)・理(り)の実践(三福道)と言われていますが、実際にその意味を理解し実践されている方は少ないようなのでここで、解説をします。

 

まず、事(じ)の供養これは身供養とも呼ばれ、いわゆる先祖供養(このことはスッタニパータには出てきませんが必要な部分)の事。実際に先祖供養が無いスリランカの僧侶などは、行、理の修行をされていても、事の供養が無いため、表面上はでは、修行を行っていても、心の中では、人間的思考の運動が止まっていません。我々には無数の先祖がおられ、そのほとんどは、人間的思考の運動のまま、お亡くなりになられるわけです。先祖のお霊は、我々の近くにいるわけですから、そのままの状態では、その運動の影響を受けます。簡単に言うと職場でも、家庭でも近くにいる人の影響を多少なりとも受けると思いますが、同じようなことですね。先祖がそのような状態では、中々自分だけ人間的思考の運動を止めることは難しくなる。そこでこの事(じ)の供養が必要となるわけです。

 

次に行(ぎょう)供養ですが、これは、我が身(自分勝手な修行という意味では無い)と言う、うちは、変わらない。すなわち人間的思考の運動のままでは、何も変わらないので、この人間的思考の運動を止めて中道を目指すと言う行(スッタニパータは、これが中心となる)です。自分の見方を捨て、こだわりを捨て中道を目指す。これが修行と言うわけです。

 

そして、理の供養、この成仏法すなわち人間的思考の運動を止める修行方法を広く世間に伝える。人間的思考の運動を止めることがいかに必要で苦を滅する道なのかを広く伝える。このことが理の供養と言われています。この3つを実践することが、解脱への近道となります。

 

皆さんは、実践出来ていますでしょうか?共に彼の岸へ到達しこの苦の世界(修練場?)から脱出(卒業)し遂には聖者を目指すのです。ここに来られた方はもう、道は見えているわけですから、実践あるのみですね。