欲望を制御して、精神統一につとめる。
人間的思考を止め、六根から感じるすべての情報を仏様に集中する。
心が乱れそうになったら戻す、戻すとつねに心がけて集中する心を養う。
もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心ひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足にして住するという。だがやがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内清らかにして心は一向きとなり、もはやなにものにも心ひかれることなく、ただ三昧よりより生じたる喜びと楽しみの境地にいたる。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼はその喜びをもまた離れるがゆえに、いまや彼は、内心平等にして執着なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいたる。これをもろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足して住するというのである。さらにまたかれは、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ捨あり、念ありて、清浄なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するというこれを名付けて正定と言う。
正定とは何か?何故心がうろつくのか?それは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が常に反応しているからである。故に心がうろつく。この運動を止めて、集中をする。すなわち中道を保って集中をする事こそ正しい定なのである。この修行が進むにつれ中道を保つことへの理解が深まり、喜びが生じる。その想いをも制し、観察によって、心の状態を見る。すなわち、念、慧=気づき、楽しみである。そののち想いの清らかな境地、時を感じるままに、無常を感じ、この境地を保つのである。これが正定の境地である。