940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。
そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。自らの人間的思考の運動(損⇔得)を制し、ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。自らの人間的思考の運動による癖をよく観察し、諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。
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940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。
そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。自らの人間的思考の運動(損⇔得)を制し、ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。自らの人間的思考の運動による癖をよく観察し、諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。
899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。かれの想いは人間的思考の運動(安心⇔不安)なのである。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからないならば不安となり、見つかれば安心する。家から旅立った旅人が家をもとめ、見つかれば安心し、見つからなければ不安となる心の運動のようなものである。
786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、思考の運動を止めているので、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、それらを掴もうとするいつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
仏教の修行の到達点とは何か?
それは、気づきである。
何に気づくことなのか?
自らの心の本性にである。
そこには、始まりもなく、終わりもなく、澄みわたり、清々しく、生き生きとした本性。
そう、最初から、心の中に解脱も、ニルヴァーナも存在していたのである。
それに「気づく」ことができれば、あなたの長い輪廻の旅も終わることになる。
そう、そこには、始まりもなく、終わりもなく、生まれ続けるエネルギーと、果てしなく続く空間
その空に融合して、自らが光り輝くのである。
人は何かを得ようと修行する。何かを求めて修行する。
何も得る必要はない。何も求める必要もない。
ただ、ただ、完成された「貴方に」気づくだけで良いのだ。
この瞑想は、現象の観察と心の観察とをあるがままに観察をする。
あるがままに観察するとは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて分けることなく全てを観察する。人間は、人間的思考の運動によって、両極端に分けるため、半分を見、半分を見ようとしない。それでは、全てを見て真理を視ることはできないのである。故に思考の運動を止めて観察することによって、全てを知り、全てを知見する。この瞑想を行うのである。
観察をしていくと、全ての現象、心は、無常であり、苦であり、無我であることがわかる。この世は無常であるから全ての現象が変化する。それを観察する。すなわち無常である。この世は無常であるが故にその現象に執着をすることは、苦である。執着することなくあるがままに観察をする。心を自分と思っている人々が多いが、心をよく観察すると。心は、自分の思い通りにはならないことがわかる。故に無我である。
心を更に観察すると、心と感情に分かれていることがわかる。感受する心とそれに反応する感情である。例えば好きな対象を得れば、感情が喜び、得られないならば怒る。これを観察すると、現象は、ただ、生起して消滅しているだけなのだが、心がその現象を感情的にとらえることによって意味のあることに変化をする。この流れを観察する。ここに苦を感じ、苦の生起のもとを観察し、苦が滅するに至る道を観察するのである。
心の観察によって、心の本性を知る。心の本性は、空性である。その空性の輝きが心であり。空性の本質を知る事が智慧なのである。それは、自らの内にあり、それを観察による知見によって気づくのだ。その知見によって覚醒した意識と空性は同一のものである。それが自分だということに気づいたとき悟りを得ることができるのだ。抵抗すべき対象はなくなり、守るべき我もない。なぜなら私たちの本性は、空であり、何もかもを受け入れることができる。空性に防御は必要なく、ダメージを受けることもない。誰も空に対して危害や影響を及ぼすことはできない。考えやイメージは攻撃や傷つけられる事があっても、空としてのスペースは破壊されることはなく、朽ちることもなく、増えることもなく、減ることもなく、生じることもなく、滅することもない。空を悟ることで、確信に満ちた心、なにものをも恐れない心が生まれる。空そのものに溶け込むことによって生き方に確実な変化が現れるのである。普遍の空へ溶け込み。完全なものとなる。この心の本性である空をしっかり自らが認識をして、知見を得るまで観察を続けるのである。それが観察の瞑想の到達点となる。
お釈迦さまがお亡くなりになる時に弟子のアーナンダが近くで泣いていました。
どうか、私たちを置いて行かないで下さい。
もっと指導して下さいと。
そこで、お釈迦さまは、言いました。
アーナンダよ私を拠り所にしてはならない。
法を拠り所にせよ。
と、それを見て私は、確かにお釈迦さまと言えど寿命が尽きたらお亡くなりになるので、拠り所にしてはならないと言われるのは、わかるが、法とは?
実は、法と言うのは、この世界の事だったのです。
まさに我々の目の前に繰り広げられているこの世界。
この世界に存在するひとつひとつが、法を表しています。
例えば、私たちがお風呂に入ったとします。ちょうどいい湯加減で入った時は、気持ちが良いです。しかし、時間と共に体温は、上がって行き、耐えられなくなるでしょう。
気持ちが良い状態は、どれくらいでしたでしょうか?ほんの少しです。
それから後は、苦痛ですよね?
これを見ても、このたった一つの動作がこの世を表している事がわかるでしょう?
これが法です。
つまり、この世で目の前に展開される現象は、全て法を表しているのです。
そこからの気づき、これが智慧です。
お釈迦さまは、その法、見て知ることによる気づきを拠り所とせよとおっしゃったのですね。
まさに目の当たりに展開される法を拠り所とし、それが教えである。
その法に気づくには、しっかりと、目の前に起きる事をよく観察をする。
同時に、自らの心、身体も観察をする。そこに法すなわち教えがあるのだと言う事をおっしゃったのです。
まず、自分の感覚的機関すなわち、目、耳、鼻、舌、蝕、意識に集中し、どのような反応の仕方をしているのか?
を観察し、人間的思考の運動(快⇄不快)を止めます。
次に、その人間的思考の運動を止めたら、目の前に現れたものに集中して、観察します。
そうすると、現れるものが変化している事に気づきます。
その常に変化する事を知って、この世が無常である事に気づきます。
この世が無常である事を知ることによって、この世は、苦であることを知ります。
そこから、更に自らの感覚機関からの反応の仕方に集中すると、反応の仕方をも変化する事を知ります。
自らの変化を自覚して、自らが無常である事を知ります。
自らが無常であることに気づき、自らと思い込んでいる存在は、無いことに気づきますそれが、無我です。
それによって、全ての執着から、離れようとする心が生じます。それが厭離です。
その状態の魂を観察すると、本来の魂は、清らかで、汚れのない玉のような光であることがわかります。
更に集中するとその輝きは、増して行きます。そして蓮華座に手が届くようになるのです。
私たちの心は、今まで、どうだったのでしょうか?
両極端の反応すなわち中道では、無い状態の時は、その両極端に執着をし、その執着である煩悩が魂を覆い、鉄の塊のように燃えていたのです。
それが瞋であり、瞋があるという事は、貪りがあるわけです。
無常を知らない状態で、常住を貪る事で、自分を見失うそれが痴です。
私たちは、これまで、この貪瞋痴の無限ループに落とし込まれて、この苦の世界をさまよい、死んでは、また生まれ、生まれたら必ず死ぬのですから、その苦は止みません。
よく、修行をぼちぼち始めますと言う言葉も耳にします。
本当にそれで良いのでしょうか?
私は、以前、自らの周りの人々が苦しんでいることが辛くて、非常に苦しみました。
何故周りの人々は、こんなにも苦しむのか?苦しむ姿は、見たくない。それが苦しい。
一見どんなに幸せそうに見える人でも、話してみると、やはり苦しんでいるではないですか?
でも、それは、当然だったのです。この世界は、苦の世界なのですから。
それに気づいて、この世界から、少しでも多くの人を助けたいと思った。
そのためには、自らが、知ってもらうしかないのです。
この縁を最後の仏縁だと思って、どうか知ってください。
この世界も残り少ないと感じて、今生で、光のように輝くのです。
お釈迦さまがお亡くなり(遷化)になるときにいわれました。
法を寄りどころとし、法を信じて歩め
例えば、師などを寄りどころとした場合、この世は無常ですから
いつまでもいるとは限らないわけです
では、法とは何でしょうか?
法=理法=ダンマと呼ばれるもの
それは、自らの内にあるものです
そう、私たち自らが法なのです
私たちが法を表し、自らの内に法がある
どのようにしたら法がわかるのでしょうか?
それは、自らを見ることです。
自らを観察する。
そして自らを正して法を顕現する。
そのためには、わき道にそれないようにする
そう、両極端の運動を止めることによって
しっかりと自らを見ることができるようになります。
私たちは、お風呂に入らないと、臭くなり、汚れていきます。
それと同じように、私たちの内面も磨かないと汚れていくのです。
そうして、よく気を付けて歩かないと障害物にぶつかって怪我をすることもあります。
同じように、心もよく気を付けて中道を歩ませないと怪我をするのです。
私たちもこの世の中に出て、大人になるにしたがっていろいろなことを学ぶように
よく気を付けるうちに理法によって様々なことを学ぶでしょう。
様々なことがわかることによって、道が照らされ
遂には、周りをも照らす存在となるのです。
我々修行者は、このスッタニパータと出会って、仏縁をいただき、彼の岸を目指します。
その修行の道はもう見えているのです。
我々は、日々、戒を保って、定に入り、慧が生まれそれを積み重ねていくわけですが
戒とは何か?人間的思考の運動を止めることです
止めるにはどうすればいいのか?
自らの心をしっかり観察すること
これが戒となります。
次に定とは何か?
集中することです。
集中できなければ、自分の心を見ることはできません。
常に集中する。そうして自分の心の動き、目の前に現れた現象をよく観察する。
そうすることによって気づきが生まれそれが慧となります。
つまり、この戒、定、慧によって、彼の岸への道が照らされます。
そうして、我々修行者は、その道を歩むだけなのです。
日々の集中、戒を保って、そこから生まれるところの智慧によって遂には、彼の岸へと到達できるでしょう。
そうして自らの目で見て知る。知見が信となるのです。
お釈迦様が説かれたスッタニパータは、苦からの脱出である。現代お経にもその一部を垣間見ることができる。寂静にして、すなわち、人間的思考の運動を止めて中道を保てば、一切の大難は来ないと説かれている。人間的思考の運動が発生し両極端の反応の仕方をすると、そこには激流が発生し、次々と同様の現象が襲いかかる。逆に自らの運動によく気をつけて、中道を保つことが出来たならば、その波は穏やかとなり、安穏は保たれるのである。そのように修行者は、自らの反応の仕方に常に注視し、その運動を止めて、日々過ごし、彼の岸へ到達せよ。