スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879のご法話

879 かれらはこのようにそれぞれの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま、異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を観る事はできないのである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げていると言う事は、いずれかの両極端を掴んでいるという事である。それらを掴んだままでは、全体を見る事が出来ないが故に真理を観る事が出来ない。その状態で真理に達した人であるという事はまさに本末転倒である。それをみて智慧ある修行者は、論争に赴くことなく自らの思考を止める事に集中せよ。誰かと組することなく、自らが真理を観ればいいからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878のご法話

878 世の中の学者たちは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)=「執着による見方」をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま論争する。真理は人間的思考の運動(快⇔不快)をせいするものにしか見えないにもかかわらずである。

 

 

論争に及ぶ者達には「こだわり」がある。「こだわり」=自らの見方に対して執着があるという事である。智慧ある修行者は、自らの運動を監視し、これらの思考はこだわりがあると気づいてそれらの思考を止める。その止めた眼で観察をすることによって真理を観る事が出来るのである。

 

 

 

 

スッタニパータ 争闘877のご法話

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

かの聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、中道による観察によって『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、中道による観察によって真理を知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

他の人々が言う境地などは修行する本人にとって意味をなさない。なぜならば境地とは、自らが見、自らが極めるものだからである。故に智慧ある修行者は、分別することなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、その目をもって真理を観たのである。

スッタニパータ 争闘874のご法話

873 (解脱についての問い)「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

対象に対して「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、対象への想いを制し中道を保つものーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

想いというものが修行の妨げになるものである。人は想いによって輪廻転生し、生まれてくる。あれこれ修行に対して考える必要は無いのである。修行者が実践すること、それは、想いを止め、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、中道を保つこと。それが「名称と形態との消滅」=「輪廻からの解脱」へとつながるのである。

スッタニパータ 争闘872のご法話

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

この無常の世の形成形態である「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は両極端を求める欲求を縁として起る。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

ここでは、修行者がお釈迦さまに中道での修行方法を詳しくお尋ねされている。人間的思考の運動(快⇔不快)が起こる元となっている接触についての質問である。また、そこから立ち上がった人間的思考の運動(快⇔不快)の両極端を掴もうとする所有欲が何故立ち上がるのか?また、「わがもの」と言う所有欲が存在しなくなる状況について、あるいはどうしたら接触をなくせるのか?その問いに対してお釈迦さまは、「この世に形あるものとして生起(生まれ)てくると接触が発生する。その接触によって両極端を求める所有欲が発生する。故に人間的思考の運動(快⇔不快)を止めてその欲求を制すればわがものと言う我執が無くなり、その状態で「形態が消滅=死」を迎えれば輪廻から解脱しこの世に転生してくることは無くなるのである。」とお答えになられた。

スッタニパータ 争闘870のご法話

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。それらを求めて立ち上がる生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。」

 

感官とは何か?それは目、耳、鼻、舌、身体、心である。それらが接触することで快と不快が生じる。故に快を求め不快を排除しようとするとその想いにより生起が発生する。この世は無常であるから生起したものは消滅するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの煩悩にとらわれている人が人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道によって観る正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

人の苦しみとは何か?この無常の世で常住を望むが故に人は苦しむ。この世で常住のものなどないからである。では、なぜ人はそれがわからぬのか?それは、人が無明だからである。無明であるから見解によって清らかになると思い込む。それでは、無明を撃破するにはどうしたらよいのか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事である。止める事で無常を知り、真理を知る。それは無明からの脱出であり解脱への道である。

スッタニパータ 争闘867のご法話

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

「世の中で人間的思考の運動(快⇔不快)である〈快〉〈不快〉と称するものに依って、両極端を掴もうとする欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物(目の前に現れたものを掴みたいと言う欲望)にとらわれた断定を下す。

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げるが故に両極端を掴みたいという欲望が立ち上がる。人が何故断定するような意見を言うのかと言うと「ある」「ない」と言う2つの事柄しか見ていないからである。故に「快」を掴めないならば怒り「不快」を掴んだならば怒る。そして「快」を掴むために虚言を言う。また、自らの考え=人間的思考の運動(正⇔誤)が立ち上がると自らが掴んだ正と違う意見には疑惑が生じるのである。そして先人の修行者は自らが正しいと思い込んだ道を説いてゆくのである。

スッタニパータ 争闘865のご法話

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を掴もうとする欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」故に人間は輪廻するのである。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望、その想いによって人は輪廻する。この世は無常であるから何かを掴んでも必ずそれは手放さないといけなくなるのである。それは愛する人であっても親しい友人であってもである。人はこの無常を知らずして追い求め輪廻する。この世は常に運動をしているので両極端に安住することはない。それが故に人は追い求めるのであるが、その想いは永遠に続く。手放さないことは出来ないからである。それを知って修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し遂には彼の岸へと到達したのである。

 

スッタニパータ 争闘862のご法話

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(愛⇔憎)によって愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは掴んだものを離さない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

争闘と論争とは自らが信じたものをそれぞれが掴んで離さないために起こるのである。それらを手放せば争闘と論争は起こらない。自らと違う考えがいるものを見ては悲しむ。あるいは論破されれば自分の考えが正しいのだろうか?と心配になる。また、違う意見に対しては否定的であるため悪口が飛び出す。これらを見ても争闘は修行とは全く関係のないものでありこころがうろつく原因にもなる。これを見て智慧ある修行者は争闘から遠ざかり安穏を観たのである。