スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800のご法話

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、執着することなく、学んだ事柄についても依存することはない。世の人々は、それぞれの分別によって党派に分かれているが、修行者は、両極端の誘惑に打ち克ち、両極端に組することなく、あるがままに世の中を見、中道を歩む者である。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799のご法話

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

修行者は、智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努め、分別に赴いてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考える事も人間的思考の運動(優⇔劣)の運動なのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798のご法話

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人の人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が動いてあるものに依存しその他のものはつまらぬものであると見なすならば、それは実に実に思考の運動によるこだわりであると真理に達した人々は語る。故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわることなく、怠ることなく自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して分けずにあるがままに、観察をし、気づきと智慧によって真理を知るのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797のご法話

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別した見方の内のみに優れた実りがあると考え、その考えに執着をしてそれ以外のものを全てつまらぬものとみなす。故にかれらは真理を視る事ができない。真の修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、排除することなく全体をあるがままに視て真理を知り、彼の岸へと到達するのである。

 

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世の中の一般の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、自らが優れていると思った見解を最上のものと考えて他のものはつまらないものと断定するが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに視る修行者は、それら全てをあるがままに視て真理を知ることによって、荒波を渡り終わり彼の岸へと到達するのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795のご法話

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何かを知りあるいは見ても、中道を保ち執着することはない。かれは、あるがままにそのものを知り、欲を貪ることなく、修行に対しても、こだわりを捨て離欲も貪らず、方法にもこだわることなくそれらに対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも制して、安らぎに帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794のご法話

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

この世の中には、5つ感受器官から入る気をつけないといけない情報がある。すなわち目で見る事、耳で聞こえる事、鼻で臭う事、舌で味わう事、肌で触れる事である。それら5つから入る情報に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努める事が修行である。それらの見えるもの、聞こえるもの、臭うもの、味わうもの、触れるものに対しての両極端の運動を制し、中道を歩め。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793のご法話

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

人は目の前に現れる事で人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって心が両極端に動揺するのであるが、真の修行者は、自らが見たり、学んだり、思索に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、中道を保っている。そのように観じ、煩悩に覆われることなくふるまう人々は、妄想分別に赴かず寂静に帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792のご法話

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

修行の在り方について、修行者は、何かを掴もうと誓戒を決めて実践したり、あれこれ想像して様々な修行をしようとするのであるが、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めてあるがままに観察をする修行者は、目の当たりに視る気づきによって知り、真理を見極めて様々な修行の仕方を試そうとしないものである。要は、何かを掴もうとして動くのではなく中道を保って、真理を知ることこそが悟りへの第一歩だと言う事なのである。

 

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791のご法話

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により、どの師が良いだろうか?などと師を貪り求める修行者は、自らの運動を制することが出来ていない。それは、人間的思考の運動による煩悩の動揺である。智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動を制して、師などに頼り近づくことなく、自らの運動を制することによってあるがままに教えを見る。修行者の教えは目の前にあり、気づきによって中道を歩み遂には彼の岸へと到達するのである。