821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。
聖者はこの世で人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来ないならば、前後にこの災い=執着のあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽って、その対象に執着をしてはならない。両極端を求めないところに真理はあるものである。
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821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。
聖者はこの世で人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来ないならば、前後にこの災い=執着のあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽って、その対象に執着をしてはならない。両極端を求めないところに真理はあるものである。
820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、あるいは、異性を執着の対象として掴んだならば、愚者のように悩む。故に賢者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し何ものをも掴まず、全てを手放して安穏を観たのである。
819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。
そうして他人に詰(なじ)られた時には、人間的思考の運動(快⇔不快)によって掴んだ自らの立場を手放さないが故に虚言に陥(おちい)る。すなわち、自らを傷つける刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。それを知って修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端を掴むことなく中道を歩み遂には彼の岸へと到達するのである。
818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、修行の目的である人間的思考の運動(快⇔不快)を制する道を外れ、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。それを知って中道を歩むべきである。
817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。
かつてかれのもっていた名誉も名声も、ひとたび人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、執着が立ち上がり、すべて失われる。このことわりをも見たならば、修行者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、淫欲の交わりを断つことを学べ。それを掴む事よりも。それらによる苦しみの方が大きいこと知るべきである。
816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
かつては独りで暮らして修行していたのに、のちに人間的思考の運動(快⇔不快)が抑えられず淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を求めて活動を繰り返す。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、彼の岸へと到達するものである。
814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。
師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は人間的思考の運動(快⇔不快)を制する教えを失い、動物的な行いをする。これはかれのうちにある動物的な性質である。両極端を求めれば必ず苦が伴う事を知って、修行者はそれらを回避せよ。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。
自らのの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した修行者は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に好き、嫌いに執着して考えることがない。かれは自らの思考の運動を制し、あるがままに理法を視る。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)を貪ることなく自らの反応の仕方を見極めて遂には彼の岸へと到達したのである。
812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
人は、常に人間的思考の運動(快⇔不快)に捉われ、見たり、学んだり、思索したことを両極端に分け、快いものを発見しては喜び、意見が違う事には怒る。あるいはこだわり苦悩する。聖者はそれを知って、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端を回避し、心は動揺することなく、中道を歩み蓮の葉が水をはじくがごとく汚されることなく安穏を観たのである。
811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。
聖者は、蓮の葉が水をはじくように、様々な人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による誘惑をはじく。そうしては、何かを掴んで愛することもなく、両極端の願いを捨て去って憎むこともない。こだわりを捨てて、悲しむことなく、掴まないが故に物惜しみすることもなく、中道を歩む。かれこそは安穏に至った人だと呼ばれる。