847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
人間的思考の運動(快⇔不快)による想いを離れた人には、それらを掴もうとする結ぶ縛(いまし)めが存在しない。分別せずあるがままに観る智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)による想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。
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847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
人間的思考の運動(快⇔不快)による想いを離れた人には、それらを掴もうとする結ぶ縛(いまし)めが存在しない。分別せずあるがままに観る智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)による想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。
修行の達人は、見解についても、思想についても、それらを分別して掴むことがなく、慢心に至ることがない。かれの本性はそのような人間的思考の運動(快⇔不快)によるものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)による執着の巣窟に導きいれられることがない。故になにものにも頼り近づくことなく、自らの道を照らし歩むのである。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
修行完成者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を離れて世間を遍歴するのであるから、両極端に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は人間的思考の運動(快⇔不快)を一滴の水も通さぬほど制することを説く者であって、人間的思考の運動(快⇔不快)を貪(むさぼ)ることなく、運動がもたらす欲望にも世間にも汚されることがない。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。
家にこだわらず、住所にもこだわることなく、村の中でに親交にもこだわらない聖者は、諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による欲望を離れ、未来を人間的思考の運動(快⇔不快)によって想い描くことなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。それらは、修行には何の役にも立たないからである。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに集中せよ。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。
比較対象が止められない修行者。すなわち自らの人間的思考の運動(真実⇔虚偽)が止められない修行者。かれは人間的思考の運動(真実⇔虚偽)を制した修行者と論争することはかなわない。思考の運動によって論争に勝ったから真理を視る事ができるのではない。人間的思考の運動(真実⇔虚偽)を止めた修行者は、あるがままに真理を視る。すでに真理を視て悟った修行者は、他と論争する必要さえないのである。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
人間的思考の運動(ある⇔ない)と言う間違えた思惟が世の人々を『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』論争に及ぼす。自らの心を制し、それらの想いを制した修行者には動揺は存在しない。修行者は、両極端の想いに汚されることなく中道を歩み彼の岸へと到達するのである。
840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。
自らの人間的思考の運動(ある⇔ない)を止められない人々は、運動を止めてあるがままに観察しようと言う内心の観察について全く修行しようと言う気持ちがないのである。人間的思考の運動(ある⇔ない)がすべてを支配する人々にとって中道の教えが中々理解できないのは、その考えに固執する故にである。それを知って修行者は、その運動を止めた先に真理があることを知ってそれらの考えに固執することなく、あるがままに世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。
838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」
世の人々のおおよその考えは、人間的思考の運動(ある⇔ない)と言う間違えた思惟によって運動している。すなわち教義が(ある⇔ない)、学問が(ある⇔ない)、戒律を(守る⇔守らない)、道徳を(守る⇔守らない)と言う人間的思考の運動である。それらの運動が起こると、教義によって執着(こだわり)が立ち上がり安らげず、学問によって執着が立ち上がり安らげず、知識によって執着が立ち上がり安らげず、戒律によって執着が立ち上がって安らげず、道徳によって執着が立ち上がり安らげないのである。あるいはその想いによって輪廻転生することになれば、本末転倒である。修行者は、それらの想いを捨て去って振り返ることなく、彼の岸へと到達せよ。
836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
当時のインドでは、生まれ変わりが信じられておりどのようにすれば、よい環境、望んだ環境で生まれ変われるのかを切望して生きる人がほとんどであった。実際に人々の転生の様子を視ると実に運動によって上下し、つまり、良かったり悪かったりしているのであるが、その運動は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって運動しているのである。例え、どのような生存状態を得られたとしても、生を得たならば死ぬ苦しみがあるのであって、それらを望んではならない。より高みを望めば、より深みが訪れる。修行者はそれらの喜びには苦しみが伴う事をよく観察をして、この迷いの生存状態を離脱し、遂には彼の岸へと到達するのである。
835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」
世の人々は、異性を見た時にあるいは、恋愛対象としての対象を見た時に、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が立ち上がりその運動のまま行動をする。そしてその対象を得られれば、喜び、得られなければ悲しむ。それらは修行をしない人間の行動である。修行者は、その対象を見た時に自らに起こる危険を察知する。あるいは、自らに立ち上がる感情を観察し、その対象に対しての、執着、その先に起こりうる愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)を見抜き、それらを制して、遂には安穏を観たのである。