スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇913のご法話

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

 

過去に人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて掴んだ過去の汚れを捨てて、新しい汚れすなわち何かを掴むことなく、欲におもむかず、両極端に執着して論ずることもない。賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し諸々の偏見を離脱して、人間的思考の運動(快⇔不快)の内にある世の中に汚されることなく、それらの想いから解放されていて自分を責めることもない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912のご法話

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。党派に組すると言う事は、人間的思考の運動(快⇔不快)による見方によって、その考えを掴み依存してしまうのである。かれは不安に駆られてそれらを掴もうとする人々のうちにあっても安らけく、泰然として、何かを求め執することがない。ー他の人々は人間的思考の運動(快⇔不快)によってそれに執着しているのだが。-

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911のご法話

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、全体を正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。自らの好みによる見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)による見解を知って、心にとどめない。ー他の人々は分別によってそれに執着しているのだが。真の修行とは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して観察することにあるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910のご法話

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ自らの見方を掴み「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重(快に想う)しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄となる道を認める論者は、そのように一方的に見たのである。分別によって全体を見る事ができない修行者には真理を見ることは出来ないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909のご法話

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

見る人は分別によって名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると思い込むであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、それを分別によって見ても清浄になるとは説かないからである。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してみる事によって初めて全体を見る事ができるのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908のご法話

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

優れた師などから習い「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制すると言う正しい道を踏みはずして、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ他人によって清浄となると説く。真理は伝え聞くものではなく、自らが人間的思考の運動(快⇔不快)を制して見るものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907のご法話

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

真の修行者は、自ら真理を見る者であって、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして人間的思考の運動を立ち上げ固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えに執着をし、最も勝れたものだと見なすこともないからである。真理は求めうろつくものではなく、目の前にあるのであるから。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906のご法話

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してみているならば、かれらはそれぞれ清浄となれるからである。しかし、自らの見方に執着をし、人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げて論争に至るならば、かれらは生死を乗り越えてはいないのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905のご法話

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して真理を見るならば、他の意見など何も気にする必要さえないのである。それは、自らが見て知る知見によって確固たる真になるのであるから。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904のご法話

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

 

かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見=人間的思考の運動(完全⇔下劣)をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。修行者は、人間的思考の運動を制しない限り真理を見る事は出来ないのである。