スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900のご法話

900 一切の戒律や誓いをも捨て、人間的思考の運動(あり⇔なき)を止める。世間の罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)である「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。中道を保って修行するのである。

 

 

人間にとって戒律や誓いなども執着の対象になりうるのだ。人によっては誓いや戒律に依存した修行をする者もいる。故に智慧ある修行者はその誓いや戒律をも手放し、依存の対象を作らない。宗教的行為によっても清浄あるいは不浄と言うような人間的思考の運動をする。人はあらゆる対象に対して依存するので、それらを手放し自らの人間的思考の運動によく気をつけて遂には真理へと到達するのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899のご法話

899 人間的思考の運動(安心⇔不安)を立ち上げもしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」となる)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)見つけた時は「安心」し見つからないと「不安」になるようなものである。

 

 

戒律や制戒は先人たちが示した修行をスムーズに行う助けになるものではあるが、人は戒律や制戒に対して人間的思考の運動(安心⇔不安)を立ち上げてしまうと本末転倒と言う事態に陥る。人間的思考の運動を止めないと真理を観る事はできないからである。あるいは、清浄と言う言葉に想いを馳せるとそれもまた人間的思考の運動(清浄⇔不浄)であるから中道を踏みはずすことになるのである。それを知って智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動に常によく気をつけ遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898のご法話

898 人間的思考の運動(戒律を守る⇔守らない)を立ち上げて戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、思考の運動を立ち上げたまま〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

戒律というものは、それを守ったから解脱するのではない。先人たちが修行の手助けとなるが故に試行錯誤して作ったものであるがそれに対して人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては本末転倒なのである。それは「安心」と「不安」である修行者が陥りやすい思考の運動としてこの2つの運動がある。戒律を守っては安心し、守らないと不安となるのである。これらは人間的思考の運動(安心⇔不安)なのであるからそこに注意する必要がある。智慧ある修行者は常に自らの心の動きに注視して安穏へと向かったのである 。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897のご法話

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解=思考の運動による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ること=「掴むこと」がないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

世俗的見解というものは人間的思考の運動(快⇔不快)による分別によって分けられる。故に中道とは相反するのである。智慧ある修行者は常に分別を気をつけるのであるからこだわることが無い。こだわりが無いから故に平等に見る事が出来、全体を見て真理に到達するのである。このように師は言われた。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896のご法話

896 たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなもの=「それだけのこと」であって、思考が運動しているので、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つの運動だけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争=思考の運動を止めた境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

修行において称賛を得たところで何の役にも立たない。むしろ人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がるきっかけになるので、できるだけ近寄らない方が良いのである。そもそも論争自体が称賛と非難と言う両極端の結果しか生まないのであるから智慧ある修行者はその事を知って論争から遠のいたのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895のご法話

895 自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができず、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じように人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている人々から称讃を博するだけである。それでは真理には程遠いのである。

 

想いあるいは自らの見方に固執する事。それらは「こだわり」だと知って聖者は固執することが無い。故に固執する人々は他からの非難を招くのである。おおよそ半分の人は同じように固執するので称賛を得るのだが、ただそれだけの事である。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894のご法話

894 人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

人間は「これだ」と思うとそれを掴み手放そうとしない。そうしてはそれらを掴み喜ぶ。そして反対のものに対しては排除しようとする。それ故に論争に赴くのである。智慧ある修行者は、それらは明らかに人間的思考の運動(快⇔不快)であると知ってそれらへの想いを手放し遂には安穏を観たのである。。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893のご法話

893 人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。思考の運動によって、他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま中道を踏み外し論じるのであれば、その時点で他を批判する事は非常に滑稽である。その者は、「愚か」「不浄」と言うキーワードが立ち上がった時点でそれは人間的思考の運動と気づくべきである。故に非常に滑稽に見えるかれには確執が付きまとうのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892のご法話

892 人間的思考の運動(清浄⇔不浄)を立ち上げ、ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自分の見方に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

我が説のみに清浄があると説く者それはこだわりである。こだわりとは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げている状態で、両極端を掴んでいる状態で起こる。故に中道を踏みはずしているので真理を見る事はできない。それを見て智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく注視し、こだわりを捨て遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891のご法話

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは人間的思考の運動(真理⇔虚妄)を止められずに自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

自らの考えに「こだわる」もの。そのこだわりこそ人間的思考の運動の両極端なのである。それを掴んでは喜び、反するものは排除しようとする。これこそが人間的思考の運動なのである。智慧ある修行者はそのことによく気をつけ中道を歩み遂には彼の岸へと到達したのである。