スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785のご法話

諸々の事物に関する固執=「自らの運動の癖」はこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうちにあって、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、不快と感じてはものごとを斥(しりぞ)け、また快と感じてはこれを執(と)る。

 

お釈迦さまの中道の修行それは自らの反応の仕方、自分がどのような反応の仕方をするのかをよく観察し、気づく事から始まる。そしてその反応の仕方に気づけばそれを止めるのである。気づいて止めるその繰り返しである。その制御機能が働くようになれば自然とそれが立ち上がる止められるようになる。修行をしない人々は、人間的思考の運動を立ち上げては両極端を掴み無常の世でそれらを失い苦しむのである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動を止める事に努め安穏を観たのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783のご法話

修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、平安=中道となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、中道を歩むかれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。

 

修行者がよく陥る人間的思考の運動で、戒律を守る⇔守らないという運動がある。これは、守ると「安心」し、守れなければ「不安」となるような運動である。故に中道を目指す修行者は、自らのこのような運動にもよく気をつけ、中道を守り遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782のご法話

人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらし、褒められたいと言う人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がっているのであるから、かれは修行を怠っている人である、と真理に達した人は語る。

 

 

自分の修行が進んでいるかどうかは、他の修行者にとっては関係のないことであって、そこには、褒められたいと言う想いが潜んでいる。中道を守る修行は人間的思考の運動を止める事であるから修行者は常に自らの想いに気をつけ中道を守り遂には真理を観るのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず、欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずからの人間的思考の運動(快⇔不快)による分別がもたらす偏見を完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

お釈迦様の修行を進めるには、自分の人間的思考の運動を止めなければならない。何故か?運動が止まらない状態では、自分の好みに基づいて物事を見るからである。そうしては、自分勝手な考えに基づいて判断してしまう。それでは、真理を観ることはできないのである。故にお釈迦様の中道を歩む修行ではまず、自分の人間的思考の運動を止めることに注意を払う。運動したと気づいたら止めるのである。止める事によって自分の偏った見方が修正され真理へと近づくのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780のご法話

実に悪意=「人間的思考の運動(正⇔悪)」をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(人間的思考の運動(正⇔悪)を立ち上げて)(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者は自らの人間的思考の運動(正⇔悪)を制しそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

他人を評価しようとする心それは、人間的思考の運動である。まさに善悪の分別であり、お釈迦様の中道の修行を行う者は常に自らの思考の運動によく気をつけそれらへの想いを制しないといけない。分別をしている限り真理を観ることはできないからである。修行者の心に分別の想いが立ち上がる時、その目は全体を観ることができない。なぜなら分別によって半分を排除しているからである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、中道を維持して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端への想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、両極端に対して所有したいという執着に汚されることなく、両極端を掴もうとする煩悩の矢を抜き去って、運動を止める事をつとめ励んで行い、人間的思考の運動(この世⇔かの世)であるこの世をもかの世をも望まない。

 

 

お釈迦様の中道を維持する修行である自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制する修行を進めて行くと、それらに対する自分の反応の仕方(癖)がよくわかるようになる。そうすると、このような時はこのような反応をすると分かれば、おのずと気をつけないといけない瞬間がわかるようになってくる。そうして、よくその運動に気をつけながら修行を進めて行く。人間というのは、この世(生きている世界)と彼の世(死んだ後の世界)を行き来しながら輪廻しているのであるから、中道を歩みつつ、それらの人間的思考の運動(この世⇔彼の世)をも止めて輪廻からの解脱へと向かうのである。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778のご法話

賢者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて両極端に対する欲望を制し、感官と対象との接触による自らの反応の仕方である癖を知りつくして、貪ることなく努める。自責の念にかられるような両極端に対する貪りを制して、見聞することがらに汚されない。このように中道を歩むのである。

 

人間というのは、日々分別の連続である。故に常に自らを見張っておく必要があるのだ。少しでも放っておくと人というのは貪り求める。そうしては、それらを追いかける忙しい日々を過ごすことになるのである。そのような状態では到底心理を観ることなどできない。故に修行者は、怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、遂には真理を観たのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777のご法話

何ものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。無常の世で何かを求めるかれらのありさまはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、この世の無常を感じ「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ーそれらを掴もうと言う想いによって諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

この世は「無常=常で無い」変化する世界であるから、この世で何かを掴もうとしてもそれは必ずその手から離れてゆく。その対象に執着をするという事は苦しみである。故に修行者は、この世の無常を観て、対象を手放し、その苦しみの想いから解放されよ。それらを掴むこと、すなわち苦しみを掴むことであるからである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776のご法話

この世の人々が、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をとめられず諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する人間的思考の運動(快⇔不快)による両極端の妄執を離れないで、死に直面して泣く。全て手放さないといけないからである。

 

私たちが住んでいる世界。この世界は両極端の世界である。何故か?すなわち生と死の世界である。この世の中の誰でも、生で始まって死で終わる。つまり、何者をも死を逃れれることはできないのである。生を掴めば必ず死が付いて回る。この世の人々は、生を得て、人間的思考の運動である快を追い求めて生まれてはまた死んでゆく。この繰り返しののである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、それら両極端を手放し、この果てしなく続く繰り返しの世界から脱出せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775のご法話

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端を掴もうとして不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常に気をつけて修行を進めれば、それらを掴もうとはしない。ましてや不正をしてまでも手に入れるなどもってのほかである。故に修行者は、人間的思考の運動の想いから離れて安穏を観たのである。人の人生は短いのであるから、死ぬまでには両極端への想いを手放すのである。そうすれば、輪廻から離れて彼の岸へと到達するであろう。