スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 争闘862の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の運動による愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を立ち上げて掴んだものを手放すときの慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句869の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは両極端の思考に基づいた見解による」と、このように考えることを最上であると思って、清らかなことを観ずる人は、見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤解する。もしも人が人間的思考の運動による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が正しい道=人間的思考の運動を止めること以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人は、思考の運動が止められない人であり「偏見ある人」と呼ぶ。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

 

かれは世間において人間的思考の運動(取⇔捨)を制し、わがものという所有がない。また人間的思考の運動(取⇔捨)を制し捨てることも無いので、無所有を嘆くこともない。かれは欲望に促(うなが)されて、人間的思考の運動(取⇔捨)により取るべく諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に様々な人間的思考の運動(取⇔捨)を制して遍歴し、平安なる者と呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

 

聖者は貪りを離れ、掴んでも慳(ものおし)みすることなく、人間的思考の運動(優⇔劣)を制して『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。自らの運動を制するがゆえにかれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、自らも妄想(もうそう)分別におもむかない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその人間的思考の運動(称賛⇔非難)による非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方を制して動揺することがない。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

 

両極端の思考を制した分けてわがものという思考を離れ、かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。すべてはありのままにかれのもとを通り過ぎるのみである。このように結ぶ絆を捨て去ったかれには、もはや苦は生じないのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

 

諸々の欲望を人間的思考の運動(正⇔誤)の反応の仕方により顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには人間的思考の運動(正⇔誤)による縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

 

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

依りかかることすなわち依存することのない人は、人間的思考の運動(正⇔誤)による依存であると理法を知って正⇔誤にこだわることがないのである。かれには、人間的思考の運動(生⇔滅)である「生存のための妄執も」、「生存の断滅のための妄執」=「精神的な貪り」も存在しない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

 

人間的思考の運動を制して平静であって、自らの反応の仕方に常によく気をつけていて、世間において分別比較対象することなく他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれは人間的思考の運動を制して煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

 

人間的思考の運動(得⇔損)による利益を欲して学ぶのではない。利益(得)が得られなかったとしても、怒ることがない。何かを得る妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、人間的思考の運動(美味⇔不味)を制して美味に耽溺(たんでき)することもない。このようにありとあらゆる自らの反応の仕方に注意し遍歴せよ。