スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774の解説

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

 

 

欲望を貪るものは、その欲望の対象しか見ていない。かれの視線はそのことに熱中し、溺れている。それは、まるで陽炎を掴もうとしているようなものである。その対象を掴んだとしても、死が訪れれば必ず手放さないといけないのであるから、苦しむのである。そうしては、またその対象を求めて生まれては死ぬ。それを知って聖者は、その執着の対象を手放し、見方を広げ遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句773の解説

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。

 

 

実に人間は、貪りの連続である。それは、過去を思い出しては、思考が動き、未来を考えては、また思考が動く、あるいは、目の前の出来事に対しても思考が動き、その思考を止めないかぎりには、真理を見ることができないからである。それを知って聖者は、自らの思考を制して、現象をあるがままに見る。そうして過去を捨て去り、未来を想うこともなく世の中を遍歴し遂には、真理を視たのである。0

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772の解説

772 窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

 

人は、人間という動物の身体に入り、目の前に現れる現象に対して、あれこれと思考する。その思考は、やむことなく煩悩の対象を追いかけ、掴んでは、また次の対象を追いかける。実にそのような人々は、対象を手放す事をせず、対象を追いかける。この世は無常であるから、その対象が離れるときに、対象を掴んで離さない人々は、苦を生じるのである。故に次の対象を求め、迷い彷徨う。聖者はそれを知って、自らの思考を止めて、対象を手放し、その対象と共に苦しみをも手放して、苦しみの対象から遠ざかり、遂には真理を見て、安穏に至ったのである。

スッタニパータ 欲望771の解説

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

 

 

人は何を中心に動いているのか?それは、様々な欲望に基づいて動いている。人間的思考の運動(快⇔不快)の分別が感情へと作用し、それを取る。取ると運動をするので、禍福が発生する。故に苦しむのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動を制して、感情へと作用することなく、あるがままに観察をして、激流を回避し、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 欲望769、770の解説

769 ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

 

 

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

 

 

人は、何故、欲望によって、災難に見舞われるのでしょうか?それは、人が、様々な、欲望を追い求めることによって、視野が狭くなり、一方的な見方になるからです。つまり、その対象しか見てないし、見えてない。ですから、その対象にまつわる災難が襲いかかってきます。欲望を制することが出来たらどうでしょうか?全く同じような状況にあっても、それを観ることができれば、災難は回避できます。その人の盲点から、激流が侵入して、気づいたときには水浸しの状態です。私たち修行者は、常に自らの人間的思考の運動によく気をつけて、その運動がもたらす欲望には災難がついてまわることを知って、それら思考を制して、よく対象と自らの心を観察し、危険を回避して世の中を生き抜くのです。

スッタニパータ 欲望768の解説

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

修行者は、藪の中を歩くときに毒蛇に気をつける事と同様に自らの欲望に気をつけねばなりません。その欲望には苦しみがついてまわるのですから、欲望を回避することは、苦しみを回避するということなのです。それは、一見、毒のないような蛇に見えたとしても、必ず毒のような苦しみがついてまわることを知って、修行者は、この世に存在するいかなるものに執着しても、苦しみが現れることを知って、この世で執着を乗り越えるのです。執着を捨て去ることで、苦しみをも捨て去ることができるのです。

スッタニパータ 欲望767の解説

767 欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

 

 

人間は、目の前に現れた現象、これは、人であったり、物であったり、思い描いた状態であったりします。もし、自分の思い描いた状況と違う形が目の前に現れれば、矢に射られたかのように苦しみます。例えば、大好きな異性が目の前に現れて、その人と付き合いたいという貪欲が生じたとしましょう。もし、その願いが叶わなかったら?どうでしょうか?その苦しみは、どうやったら回避できるでしょうか?それは、その想いを自分自身が掴んでいるからです。掴んでいるちうことは、その願いが叶わなかった時の苦しみも掴んでいるのです。ですから、お釈迦様は、その想いを手放しなさいとおっしゃっています。その想いを手放したとき、あなたは苦しみから解放され安穏を観ることができるでしょう。

スッタニパータ 欲望766の解説

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

 

欲望とは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって生じます。この時、自らの欲するもの、すなわち、好きなものを得られると、感情に作用し、喜びが立ち上がってしまいます。これを心の作用に照らし合わせると、分別→感受→感情、と言う流れとなるのです。人間は、一瞬のうちに目の前に現れた現象を分別し、それを受け取り、感情が動きます。この感情が動く事を、激流と呼ぶのです。喜怒の感情による運動が、自らの苦楽を作るのですから、まずは、分別しようとする人間的思考の運動を制して、喜びを受け取ることをやめて、それを捨て去って、感情が運動することなく保つのです。その状態を維持できれば、心は安穏に至るでしょう。何故、喜びを手放す必要があるのか?それは、人間的思考の運動による喜びは、運動をするのですから、必ず苦しみへと変化します。故に、喜びを手放すということは、同時に苦しみを手放す事と同等となるのです。仏道修行の基本は、常に苦集滅道ですね。

スッタニパータ 四神足の修練その2の解説

四神足が修練され豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

 

 

 

心の人間的思考の運動を制して、豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。目で感知する視覚による人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。この、人間的思考の運動を制することによって、今まで見えなかったものが見える。なぜか?それは、思考の運動が止まることにより、見方が広がるからである。人は、運動によって、好きなものしか見ようとせず、嫌いなものは見ようとしない。その運動を止めない限りは、この世の実相を知ることはできないのである。このように人間的思考の運動を制しエネルギーのコントロールが修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。すなわち教えによって知るのではなく、自らが真理を観て覚るのである。

スッタニパータ 四神足の修練その1の解説

四神足を修練し、豊かならしめたならば、多様なる神変を身に受ける。一身にして多身となり、多身にして一身となり、あるいは現われ、あるいは隠れ、牆壁や山岳をよぎって、礙げなく、行くこと空中におけるがごとく、地中に出没すること水中におけるがごとく、水中を行きて壊られざること地上におけるがごとく、虚空においても結跏趺坐してそぞろ歩きすることは飛鳥のごとく、このように大神通・大威徳あるこの日月を手でとらえて揉んでしまい、梵天の世界にいたるまでも身をもって支配する。このように四神足を修練し豊かならしめたならば、清浄にして超人的な天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。このように四神足を修練し豊かならしめたならば、他の生存者、他の人々の心をば心によって了解して知る。貪りある心を貪りある心であると知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知り、また怒りある心を怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れた心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざる心を偉大ならざる心であると知り、上ある心を上ある心であると知り、無上の心を無上の心であると知り定にあらざる心を定にあらざる心であると知り、定のうちにある心を定のうちにある心であると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知り、解脱している心を解脱している心であると知る。

 

 

 

人間的思考の運動である耳から聞こえる快⇔不快を制し、自らの様々な反応の仕方を見極め豊かならしめたならば、清浄にして超人的な天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。人間的思考の運動である心で感じる快⇔不快を制し、自らの様々な反応の仕方を見極め豊かならしめたならば、他の生存者、他の人々の心をば心によって了解して知る。貪りある心を貪りある心であると知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知り、また怒りある心を怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知り、迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れた心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざる心を偉大ならざる心であると知り、上ある心を上ある心であると知り、無上の心を無上の心であると知り定にあらざる心を定にあらざる心であると知り、定のうちにある心を定のうちにある心であると知り、解脱していない心を解脱していない心であると知り、解脱している心を解脱している心であると知る。すなわち、聞くことの運動によって、今まで、聞こえていなかったものが聞こえるようになり、心の運動によって認知できなかった他の心を知ることができる。すなわち、知見が広がるのである。