スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

スッタニパータ 死ぬよりも前に858のご法話

かれには、人間的思考の運動(快⇔不快)が生み出す執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれにはすでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

聖者というものは現象をあるがままに観る。あるがままという事は、わけないという事である。それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼で観る。それがあるがままという事なのだ。故に分けた上で人間が選ぶような物質的なものすなわち執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所から解放され遂には解脱へと至るのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人=中道を保つ人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着を渡り了(お)えた。

 

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、快を追い求めるそれらをどうやったら掴めるのかを顧慮(こりょ)するのである。故にそれらを掴もうと縛(いまし)めの結び目が出来るのである。それをみて智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856のご法話

両極端に対して依りかかることのない人は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道による観察によって理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。修行者はこのような状態を目指すのである。

 

 

依りかかるという事は依存するという事である。人間は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると、快を掴めば安心し、不快を掴めば不安となり両極端を求めて心がうろつく。このような運動を繰り返しているのである。修行者はそれらの運動によく気をつけ、運動を止めて、運動を追いかけるのではなく、あるがままに観察をする。故に真理が見えるのである。このようにお釈迦さまは言われた。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855のご法話

平静であって、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に常によく気をつけていて、世間において他人と自分と等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。修行者はこのような状態を常に保つべきである。

 

人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がると他人と自分を比較したりするものである。その状態では物事の本質をみる事は出来ない。聖者はその変化を見、かれこれがこのような状態とある時このように存在するということを明らかに知るそれが真理への道であり、平静に観るということである。故に智慧ある修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854のご法話

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。両極端による妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。これらの思考の運動を制し、あるがままに観察することである。

 

 

人間というものは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ快を掴めば喜び、不快を掴めば腹を立てる。あるいは、快を掴んでは高慢となり、不快を掴んでは意気消沈する。このように心がうろつくのである。故に賢者はこれらの思考の運動を止めて、反応することなくあるがままに観る。その目には真理が映るのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、またなにかを掴んでも高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように修行を進めていくべきである。

 

 

人間というものは何かにつけ人間的思考の運動(快⇔不快)の反応をしてしまう。そのたびに人間的思考の運動を立ち上げては心がうろつくのである。そのような心では到底真理を観る事は出来ない。故に聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、(遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、何かを掴んでも、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。このように修行を進めていくべきである。

 

 

遁欲(とんよく)と言うのは、人間的思考の運動(快⇔不快)を追い求める欲の事である。ひとたびここ欲が生じると両極端を手に入れるために、手段を択ばなくなり、俗にいう下劣な思考となるいわゆる「貪り」「ものおしみ」「傲慢」が立ち上がるのである。故に智慧ある修行者は、それらの思考を離れ、よく気をつけて世の中を遍歴し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851のご法話

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。このように修行者は修行を進めていくべきである。

 

人間的思考の運動というものは様々なタイミングで立ち上がる。例えば過去を思い出した時も、あの時はこうだったった、ああすれば良かったと言うような想い。これも人間的思考の運動である。現在起こっていることに対してもあれこれ想う事それも人間的思考の運動(快⇔不快)である。更には未来に対して想う事これも人間的思考の運動である。この想いがこの無常の世を作り出し永遠と輪廻させる元なのである。故に智慧ある修行者は、それらの想いを制して、世の中を遍歴し遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850のご法話

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも掴むことがないので、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制した聖者は、心が動揺することが無い。かれは、自らの人間的思考の運動を制した眼で世の中を遍歴しあるがままを観、真理を観る。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849のご法話

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

現在の事でも過去の事でも、この想い巡らせる事が人間的思考の運動(快⇔不快)なのである。この運動を止めない限りには、安らかにはなれないのである。それを知って聖者は自らの人間的思考の運動によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。