かれには、人間的思考の運動(快⇔不快)が生み出す執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれにはすでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
聖者というものは現象をあるがままに観る。あるがままという事は、わけないという事である。それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道の眼で観る。それがあるがままという事なのだ。故に分けた上で人間が選ぶような物質的なものすなわち執着の対象である子も、家畜も、田畑も、地所から解放され遂には解脱へと至るのである。