スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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07月

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。ただそれだけの事なのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怠ることなく「こだわり」を捨て去って、動揺することなく、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、怠ることなく観察し、この無常を感じとるのである。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、よく観察し、この理(ことわり)=一時的な事であると知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、世の中を観察し、この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=輪廻流転の領域にとどまってはならない。

 

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は無常である。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす想いによって、この無常の世に生まれてくる。そうしては、この世⇔かの世と言う運動が生まれ、これを繰り返す。ひとたび人間的思考の運動(快⇔不快)を制したならば、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともないのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を掴むことなく特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で、観察し、真理を見る。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、あるがままに観る事を常とし、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。それらへ対しての自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、両極端に対しての想い、種々の生存に対しての想い、この世でのあり方についても、来世に対しての希望ついても、願うことがない。諸々の事物に関して人間的思考の運動(快⇔不快)によって断定を下して得たあるいは掴んだ固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。故にかれは、それらへの想いから解放されているのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、過去に分別した見解あるいは先入見を捨て去って自らの想いに執着することなく、学識に関しても人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んでは、それらに依存し、分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解に対しても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、掴むことなく、依存せず、そのまま信ずることはない。故にかれは、それらへの想いから解放されているのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(快⇔不快)である偏見をかまえてはならない。自らの運動を制し、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。それらの想いが人間的思考の運動(快⇔不快)なのである。