スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786のご法話

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して中道を歩む修行者は、分別による偏った見方は存在しない。故にあるがままに、物事を見て、真理を知り、分別によって何かを掴もうとしないが故に頼る対象もなく、また生まれたいと言う強い想いもない。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785のご法話

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

人の見解と言うものは、それぞれの反応の仕方すなわち人それぞれの人間的思考の運動(正⇔誤)によって立ち上がるのであるから、自らのこだわりが人間的思考の運動によるものであると見極めて自らのこだわりである執着を乗り越える事は容易ではない。世の人々は、それぞれの人間的思考の運動である分別によって排除し、あるいは掴むことを繰り返して生活しているのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句784のご法話

784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。

 

 

真の修行者は、比較対象しない。それは、人間的思考の運動(優⇔劣)だからである。自分が勝っていると思っては喜び、他人が劣っていれば喜ぶ。その喜びを得るためには手段を択ばない。それらは運動による一時的な喜びであるから運動によって優越感は劣等感へと変化する。故にゆらぐものなのである。他人より優れているから真理を視るのではない。他人より劣っているから真理を視れないのではない。それらの運動を制して、全体を見る事ができた時に、真理を視る事ができるのである。

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783のご法話

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。

 

 

人間と言うものはどうしても少し修行が進むと嬉しくなって周りの修行者に自慢したくなるものである。その心の高ぶりは人間的思考の運動(快⇔不快)であるから、それに基づいた行動は、煩悩によるものである。すなわち何か心地よいものをである誉め言葉を求めているのである。真の修行者はどうであろうか?そのような言葉に喜びことなく、自らは道半ばであることを自覚して、それらの気持ちをも制して、遂には、彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782のご法話

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)によって、周りのひとから心地よい言葉が聞きたいと言う欲が修行者に発生した場合には自分の修行状況を人に言いふらかしたいと言う欲が生じる。それは人間的思考の運動がもたらす耳から入る感受すなわち心地よい言葉が聞きたいよ言う運動から立ち上がる心理である。かれは人間的思考の運動が動いているのであるから、修行ができていない人と言う事になる。それを知って修行者は、自らの行動に注意し、それらは言わずとも自然にわかるものであると知って、自らの思考を動かすことなく修行に励むものである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781のご法話

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が止められず、好みに捉われている人は、視野が狭く、全体を見る事ができない。故に自らの枠を超える事ができないのである。かれは、自らの枠の中では完全だと思っているが全体を見る事ができていないのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780のご法話

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

人が他人を誹るときそこには、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が動いている。嫌いあるいは不快を感じた時に、それらを排除しようとするのである。そうしては他人に同意を求める。それらが自分が見たことであっても、他人から聞いた事であっても、人間的思考の運動が動いている事には変わりがない。人間的思考の運動が動くときそこには、心の荒みがある。あるいはそれによって、生と死が動き出し、楽と苦が動き出す。すなわちそれらは荒波である。聖者は、それらを観て、それらに近づくことなく、安穏に帰したのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779のご法話

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

修行者は、自らの想いと言うものが、どこから来るのもなのか?人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制してそれらが作り出す激流を渡れ、それらを離れる事によって聖者は執着の対象を所有したいと言う想いに汚されることなく、煩悩の矢を抜き去って、自らの運動を制することを務め励んで行い、それらの想いがもたらす、この世とかの世の行き来、すなわち輪廻転生を乗り越えて遂には、その無限の連鎖から解脱するのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778のご法話

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

賢者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)である両極端に対する欲望を制し、感受する感覚である目(美しい⇔醜い)、耳(称賛⇔非難)、鼻(良臭⇔悪臭)、舌(美味しい⇔不味い)、蝕(快⇔不快)、意(好き⇔嫌い)がどのように対象に接触した時にそれらが生じるのかに熟知し、それらの反応を制し、貪ることなく、極端な行いをすることなく、制することによって、対象によって動揺することなく汚されないのである。修行者は常にこれらに気をつける事に努め自らを制し、安穏をみるのである。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777のご法話

777 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

世の人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により自らが好きなものをわがものとして執着をする。それらの対象は、常に変化するのであるから、ひからびた流れにいる魚が水を求めるように対象は変化し失われる。そのような対象を人々は追いかけて執着をするのであるから、その対象は、失われ、人々は苦しむのである。それを知って、修行者は、対象に執着することなく手放し、無常を感じ、あるがままに対象を知って、世の中を遍歴するのである。