スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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11月

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796のご法話

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世の中の一般の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって、自らが優れていると思った見解を最上のものと考えて他のものはつまらないものと断定するが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに視る修行者は、それら全てをあるがままに視て真理を知ることによって、荒波を渡り終わり彼の岸へと到達するのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795のご法話

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何かを知りあるいは見ても、中道を保ち執着することはない。かれは、あるがままにそのものを知り、欲を貪ることなく、修行に対しても、こだわりを捨て離欲も貪らず、方法にもこだわることなくそれらに対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)をも制して、安らぎに帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794のご法話

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

この世の中には、5つ感受器官から入る気をつけないといけない情報がある。すなわち目で見る事、耳で聞こえる事、鼻で臭う事、舌で味わう事、肌で触れる事である。それら5つから入る情報に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制することに努める事が修行である。それらの見えるもの、聞こえるもの、臭うもの、味わうもの、触れるものに対しての両極端の運動を制し、中道を歩め。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793のご法話

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

人は目の前に現れる事で人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって心が両極端に動揺するのであるが、真の修行者は、自らが見たり、学んだり、思索に対しての人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、中道を保っている。そのように観じ、煩悩に覆われることなくふるまう人々は、妄想分別に赴かず寂静に帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792のご法話

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

修行の在り方について、修行者は、何かを掴もうと誓戒を決めて実践したり、あれこれ想像して様々な修行をしようとするのであるが、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めてあるがままに観察をする修行者は、目の当たりに視る気づきによって知り、真理を見極めて様々な修行の仕方を試そうとしないものである。要は、何かを掴もうとして動くのではなく中道を保って、真理を知ることこそが悟りへの第一歩だと言う事なのである。

 

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791のご法話

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)により、どの師が良いだろうか?などと師を貪り求める修行者は、自らの運動を制することが出来ていない。それは、人間的思考の運動による煩悩の動揺である。智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動を制して、師などに頼り近づくことなく、自らの運動を制することによってあるがままに教えを見る。修行者の教えは目の前にあり、気づきによって中道を歩み遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790のご法話

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

世の人々は、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想を見たり聞いたりしてはそれらを、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分けては、それらを掴み、また捨てる。そうしては禍福の因を作っていく。真の修行者は、それらを掴むことによって、清らかになるとは説かない。修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)に常に気をつけ、それらの見方を捨て去って、両極端に汚されることなく中道を歩み遂には清らかになるのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789のご法話

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

世の人々は、教えや、知識をも人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって分別し、それらを頼り、あるいは掴んで苦しみを逃れよとする。修行者は知るべきである。それら掴んだもの、頼ったものには苦しみがついてまわることを知って、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止める事を常に気をつけ日々精進することによって遂には進むべき道が見えてくるのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788のご法話

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

人は、どこか素晴らしい能力を持っている他人、あるいは師を見つけては、あの人は凄い、あるいは、あの人が言う事は正しいと、頼り近づく。それらの人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による見解によって最上の智慧がもたらせられると思い込んでいる。聖者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めた観察によってのみ智慧がもたらされることを知り、頼り近づくことなく、自らを追究し遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787のご法話

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)にもとづいて何かを掴もうとする人々は、この世の中ではおおよそ半分の人々は、反対の意見、あるいは反対の見方をするのであるから誹りや噂は免れないのである。それらの思考の運動を制し、あるがままに全てを見る修行者は、何かを掴むこともなく捨てることもなくそれらの束縛から解放されているのである。