スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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06月

スッタニパータ 迅速916の解説

915 〔問うていわく、ー〕「太陽の裔(すえ)である偉大な仙人(ブッダ)、あなたに、遠ざかり離れること平安の境地とをおたずねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも執することなく、安らいに入るのですか?」

 

 

916 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて。有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。内に在するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「われは考えて。人間的思考の運動(ある⇔なし)による、有るという迷わせる不当な思惟の根本を思考の運動を止めて、すべて制止せよ。内に在するいかなる運動による妄執をもよく制して導くために、常に心して思考を制することを学べ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇914の解説

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

 

見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して思考の運動を制し分別することなく敵対することがない。かれは思考の運動による負担をはなれて解放されている。かれは、運動によってはからいをなすことなく、両極端を求めて快楽に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。ー師はこのように言われた。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇913の解説

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

 

 

 

過去に分別した汚れを捨てて、新しく分別することなく汚れをつくらず、欲におもむかず、執着して論ずることもない。賢者は諸々の思考の運動がもたらす偏見を離脱して、あるがままに見、世の中に汚されることなく、自分を責めることもない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇912の解説

912 聖者はこの世で諸々の束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

聖者はこの世で諸々の思考の運動がもたらす束縛(そくばく)を捨て去って、論争が起ったときにも、分けることなく、党派にくみすることがない。かれは思考の運動の中にあるような不安な人々のうちにあっても自らは安らけく、泰然として、思考を制し執することがない。ー他の人々は思考の運動が抑えられず、それに執着しているのだが。-

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇911の解説

911 バラモンは正しく知って、妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗の立てる諸々の見解を知って、心にとどめない。ー他の人々はそれに執着しているのだが。-

 

 

 

修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、分別することなく、正しく現象を知って、思考の運動がもたらす妄想分別(もうそうふんべつ)におもむかない。思考の運動による見解に流されず、知識にも流されない。かれは凡俗の立てる諸々の思考の運動による見解を知って、心にとどめない。ー他の人々は思考が運動し、それに執着しているのだが。-

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇910の解説

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

 

 

自らの見方である「われは知る」「われは見る」ということに執着して論ずる人は、みずから構えた偏見を掴み執着をしているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依存することがらのみ正しいと説き、そのことがらにのみ清浄となる道を求める論者は、そのように人間的思考の運動(正⇔誤)により一方的に見たのである。その運動を止めない限りかれは真理を視る事が出来ないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇909の解説

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認め知るであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

 

 

見る人は表面的な無常である名称と形態とを見る。また見てはそれらを常住または安楽であると思い込むであろう。見たい人は、多かれ少なかれ、それらをそのように見たらよいだろう。真理に達した人々は、無常を常住であると見ることによって清浄になるとは説かないからである。無常を無常であると知って真理を知るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇908の解説

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

 

 

「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるのだろう。真理とは、自ら見るものであって、他人が見たことを聞いたところで、何の役にも立たないからである。かれらは、人間的思考の運動を止め、自ら真理を視る道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇907の解説

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

 

 

真の修行者は、自ら真理を視るものであって、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて一方的な見方をし、断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。人間的思考の運動(優⇔劣)を制し、他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

かれらは、それぞれが自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。この人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止めない事には、真理を視ることはできない。かれらは、自らの見方に固執し、他の見方を見ない。故に全体の真理を視ることが出来ないからである。