スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

06月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるという事が真理であると言うのであれば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみなそれぞれの人間的思考の運動(優⇔劣)による見方によって自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。真の修行者とは、この運動を離脱したところに安穏を観るものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

かれらは人間的思考の運動(自⇔他)により自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。真の修行者とは、この人間的思考の運動(自⇔他)を打ち破って、その運動を制し、その枠を超えて真理を視るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。それぞれの見方に固執し、その他のものを排除する。全体を見ることが出来ないかれらは真理を視る事が出来ないのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

人間的思考の運動によるねがいをねがい求める者には両極端の運動がある、また、掴んだものを失う事にはからいのあるときには、掴んだものを失うおののきがある。この世において死も生も在しない者、すなわち何も掴むことがないものーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、自らの修行方法を掴み、固執し、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。それらをも手放す事によって安穏を観るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

修行者は一切の束縛を離れ、戒律や誓いをも捨て、世間の人間的思考の運動である「罪過(ざいか)あり」⇔「罪過なき」この(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」⇔「不浄である」とかいって運動によるねがいを求めることもなく、自らの思考の運動を制し、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執し掴むこともなく、全てを手放し解放されよ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、人間的思考の運動(安心⇔不安)が立ち上がり、「不安」にかられ、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて「安心」を望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ隊商を見つけた時には「安心」し、家から旅立った旅人が家をもとめ、見つけた時には「安心」するようなものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人々は、その「こだわり」によって流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、人間的思考の運動による比較に基づいたこれらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め掴むことがないから、こだわりがない。かれは、自らを拠り所とし、自らを究め知り尽くした存在であって、そもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、思考の運動が止まらない限り平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難との二つの運動だけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地すなわち人間的思考の運動(称賛⇔非難)を止める事が安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。