スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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05月

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)とは、感官による接触から起こる反応の仕方にもとづいて起る。感官による接触から起こる反応を制したときには、これらのものも起らない。人間的思考の運動によって繰り返される生起と消滅が発生する意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触から起こる反応の仕方を制する方法をわれは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)による二つの運動があるときに現われる。運動による貪りがある時に怒りが発生し、貪りによって虚言が発生し、貪りを得られないことによって疑惑が発生する。疑惑ある人は知識の道に学べ。修行の達人は、人間的思考の運動を止めてそれらを観察することによって、その理を知って、諸々のことがらを説いたのである。

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中の人間的思考の運動(快⇔不快)と称するものに依って、それらが感情へ作用した時に欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人(修行者)は外的な事物にとらわれた人間的思考の運動(快⇔不快)の反応の仕方による断定を下した一方的な見方によって、怒り、虚言、疑惑が発生するのである。

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による反応が感情へ作用した欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望(展開)とその成就(転生)とは、その強い執着にもとづいて起る。

スッタニパータ 争闘863の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって掴んだものを手放さない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

かれは世間において、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制した目で、正しく見聞し、わがものという所有がない。またそれらを掴むこともないので、無所有を嘆くこともない。かれは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に自らの人間的思考の運動によく気をつけて実践し平安なる者と呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪りを離れ、それらを掴むことなく、あるいは、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。他との比較は、修行とは全く関係のないものであることを知り、かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、自らの人間的思考による運動を制して妄想(もうそう)分別におもむかない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれはその非難を特に気にかけることはない。かれの修行は、他との比較ではない。他からの影響を受けることもない。自⇔他の分別を打ち破って、自らを観察し、自らを知ることである。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

 

かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。対象に対しての思考の動きを制し、すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。かれは、あるがままに、対象を観察し、それを掴まない。それらに対しての心の動揺を手放して、安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

人が現象に触れた時に、分別が発生する。それが、感情へと作用した時に、その対象に対して運動が発生し欲望となるのである。諸々の欲望への対象に対しの分別を止め、感情へと移行することのない人、ーかれこそ平安なる者である、とわたくしは説く。かれには思考の運動による縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えたのである。