スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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05月

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

自らの思考の運動に常によく気をつけて、依りかかることのない人は、あるがままに理法を知って、思考の運動を制して、こだわることがないのである。かれには、生存のための妄執(生⇔死)も、生存の断滅(解脱を得る)のための妄執も存在しない。依りかからず、こだわらず、何かを掴もうとせず、追いかけない。それが修行者である。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、平静であって、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけていて、世間において他人と自分とを思考の運動による想いを制して、等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには、思考の運動がもたらす煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

修行者は、人間的思考の運動(損⇔得)に捉われることなく、常にそれらの運動によく気をつけて学び、利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。このように心は安穏を保ち、運動によるこだわり、すなわち妄執のために他人に逆(さから)うことがなく無抵抗の境地を得、食事においても、美味に耽溺(たんでき)することもなく、あるがままに、食を感じる。すなわち地水火風の要素として感じるのである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、またそれらを得ても、高慢にならず、思考を制して、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、想いによる見方で、信ずることなく、心動かすことなく平等にして、なにかを嫌うこともない。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による想いのまま貪る想いから遠ざかり、それらを求めて偽(いつわ)ることなく、それらを求めて貪(むさぼ)り求めることなく、それらを掴んだとしても、慳(ものおし)みせず、それらを掴んだとしても、傲慢(ごうまん)にならず、それらを掴んだとしても、嫌(きら)われず、それらを掴むことができなくても、両舌(かげぐち)を事としない。このように修行者は、自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して、安らぎに帰しているのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

修行者は、自らの人間的思考の運動(良し⇔悪し)による想いを制して、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。現在においても、対象をあるがままに観察をし、自らの思考を制して、感官で触れる諸々の対象について掴むことなく、遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見(良し悪し)に誘われることがない。このように自らの心を制したものが安穏を観るのである。

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの思考による動きを制して、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思考の動きを思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。これらの怒り、おののき、誇り、行い、そわそわ、言葉は、全て人間的思考の運動(快⇔不快)による快を求める思考、あるいは不快を排除する思考の運動によって起こるのであるから、聖者はこれら両極端の運動を制して安穏を観たのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、人間的思考の運動による想いを完全に制し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。その想いが運動をもたらすのであるから、修行者よ、現象をあるがままに見て、想いを巡らせてはならない。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間的思考の運動による想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。鏡のように分けずに見る智慧によって解脱(げだつ)した人には、全てを見透し、迷いが存在しない。人間的思考の運動による想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつき、また生まれる。

 

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、それらへの人間的思考の運動(優⇔劣)による見方を制して慢心に至ることがない。かれの本性はそのような運動をするものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは、それらへの自らの運動を制して、中道を歩み、執着の巣窟に導きいれられることがない。