スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人のいるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。修行者が戦うべき相手は外にあるものではなく内にある。すなわち自らの心の動揺に打ち克つ修行である。

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、運動を伴うのであるから、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれはその運動が感情へも伝わり、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「何かを得ることによって清浄が達成される」とは説かないからである。その思考の運動を止める事によってのみ、安穏を観ることができるのである。

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。これらの人間的思考の運動(称賛⇔非難)よって(喜⇔悲)が発生し、心の荒波となり苦が生じるのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動に常に気をつけ、それらを制して世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動(得意⇔失意)による得意と失意とがある。心に思い描いた利益が得られると、得意と言う想いが立ち上がり、得られなければ、失意へと落ち込む。ひとは、これを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たない。これら感情の浮き沈みは、思考の運動を止めるという修行の妨げになるだけなのである。

スッタニパータ パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、人間的思考の運動(喜⇔悲)によって論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。修行者が気にするべきは、周りの反応の仕方ではない。自らの反応の仕方に対して、よく気をつけて制することこそ修行なのである。

 

スッタニパータ パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

集会の中で論争に参加した者は、人間的思の運動(称賛⇔非難)が立ち上がり、称賛を受ければ心が高揚するそのような思考によって、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。このようにかれらの心には激流が渦巻いているのである。論争にはこのような災難があると知って、修行者は論争に赴いてはならない。

スッタニパータ パスーラ825の解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

実にかれらは、人間的思考の運動(正⇔誤)により論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、師などをかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。自分、その他と言う分別を打ち破ることができずにいるのである。

 

 

スッタニパータ パスーラ824の解説

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと人間的思考の運動(正⇔誤)によって説く。その分別したもののうち「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。真理は、自らの前に広がるものであり執着の対象でもない。今、修行者の目の当たりに広がるものこそが真理なのである。

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823の解説

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

聖者は諸々の欲望には、様々なリスクが付着していることを知って欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、人間的思考の運動(苦⇔楽)がもたらす激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々は、眼に見えぬ苦に覆われている自らを知って、かれを羨(うらや)むのである。そしていずれはその苦がかれらに襲いかかるのである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822の解説

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

俗事から離れて独り居ることを学べ。俗事において何かを得たとしても、それは、失われる運動の範疇にある。それを知って俗事を離れる。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは、運動を離れて、安らぎに近づいているのだが、継続することが肝要である。