スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2019年

スッタニパータ 争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による「想い」制せよ「ありのままに「想う」者でもなく、誤って「想う」者でもなく、「想い」なき者でもなく、「想い」を消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、「想い」にもとづいて起こるからである。」

理法とは?

お釈迦さまがお亡くなり(遷化)になるときにいわれました。

法を寄りどころとし、法を信じて歩め

例えば、師などを寄りどころとした場合、この世は無常ですから

いつまでもいるとは限らないわけです

では、法とは何でしょうか?

法=理法=ダンマと呼ばれるもの

それは、自らの内にあるものです

そう、私たち自らが法なのです

私たちが法を表し、自らの内に法がある

どのようにしたら法がわかるのでしょうか?

それは、自らを見ることです。

自らを観察する。

そして自らを正して法を顕現する。

そのためには、わき道にそれないようにする

そう、両極端の運動を止めることによって

しっかりと自らを見ることができるようになります。

私たちは、お風呂に入らないと、臭くなり、汚れていきます。

それと同じように、私たちの内面も磨かないと汚れていくのです。

そうして、よく気を付けて歩かないと障害物にぶつかって怪我をすることもあります。

同じように、心もよく気を付けて中道を歩ませないと怪我をするのです。

私たちもこの世の中に出て、大人になるにしたがっていろいろなことを学ぶように

よく気を付けるうちに理法によって様々なことを学ぶでしょう。

様々なことがわかることによって、道が照らされ

遂には、周りをも照らす存在となるのです。

彼の岸へと向かう修行

我々修行者は、このスッタニパータと出会って、仏縁をいただき、彼の岸を目指します。

その修行の道はもう見えているのです。

我々は、日々、戒を保って、定に入り、慧が生まれそれを積み重ねていくわけですが

戒とは何か?人間的思考の運動を止めることです

止めるにはどうすればいいのか?

自らの心をしっかり観察すること

これが戒となります。

次に定とは何か?

集中することです。

集中できなければ、自分の心を見ることはできません。

常に集中する。そうして自分の心の動き、目の前に現れた現象をよく観察する。

そうすることによって気づきが生まれそれが慧となります。

つまり、この戒、定、慧によって、彼の岸への道が照らされます。

そうして、我々修行者は、その道を歩むだけなのです。

日々の集中、戒を保って、そこから生まれるところの智慧によって遂には、彼の岸へと到達できるでしょう。

そうして自らの目で見て知る。知見が信となるのです。

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は接触による人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求を縁として起る。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。限りなく人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、解脱し形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。」

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

 

「人間的思考の運動である快と不快とは、感官による接触すなわち目、耳、鼻、舌、身、意による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。この世の生起と消滅ということの意義と、無常の世に輪廻が起るもととなっているもの「感官による接触」を、われは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動による快と不快との二つがあるときに現われる。疑惑ある人は理の道に学べ。すなわち人間的思考の運動による貪りが生じ、快が得られないときに怒りが生じ、快を得るために虚言が生じる。それらが運動(快⇔不快)をするが故に疑惑も生じる。修行者は、知って、諸々のことがらを説いたのである。

 

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中で〈快〉〈不快〉と称するものの運動に依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅との運動があることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた両極端の断定を下す。

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)による欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」すなわち人は人間的思考の運動(快⇔不快)による強い執着によってこの世界へ転生し成就(快)を得られたとしてもそれは運動をするので、まったく逆の不快もそれに伴って現れる。そうしては、快を求め転生し、人はそれを繰り返す。

スッタニパータ 争闘862の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)の運動による愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を立ち上げて掴んだものを手放すときの慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句869の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは両極端の思考に基づいた見解による」と、このように考えることを最上であると思って、清らかなことを観ずる人は、見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤解する。もしも人が人間的思考の運動による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が正しい道=人間的思考の運動を止めること以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人は、思考の運動が止められない人であり「偏見ある人」と呼ぶ。