スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2018年

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって、自分の奉じていることのうちにのみすぐ(優)れた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬもの(劣)であると見なす。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。  

 

 

 

 

世間では、人は人間的思考の運動(優⇔劣)によって諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と両極端に説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、煩悩すなわち人間的思考の運動を制し束縛された範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、分ける事なく執着することがない。かれは人間的思考の運動(欲⇔離欲)による欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは人間的思考の運動(最上⇔最低)をも制し、この世ではこれが最上のものであると固執することもない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

794 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

 

 

 

かれらは、何かを得るために、はからいをなすことなく、両極端に分ける事もないので、何物かを特に重んずることもなく、何かを得たように「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。人間的思考の運動(信⇔擬)によって結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動(信⇔擬)による反応の仕方を制し、支配している。このように観じ、両極端に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして人間的思考の運動による妄想分別させることができようか。かれは、自らの運動を制して平安に帰しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、人間的思考の運動(正⇔誤)による想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、人間的思考の運動を止めたところから来る智慧によって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

 

人間的思考の運動(信⇔擬)の反応の仕方によって、前の師などを捨てて後の師などに依存し、煩悩による両極端の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てると言う運動を繰り返す。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。常に運動の範疇に存在し、その運動から脱することが出来ない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動を止めることのほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちの分別によっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動である禍⇔福に汚されることなく、人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ、自我を捨て、この世において人間的思考の運動(禍⇔福)の因をつくることがない。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

もしも人が人間的思考の運動(信⇔擬)による見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって分別した状態で、苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩=人間的思考の運動にとらわれている人が人間的思考の運動を止める事以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある=人間的思考の運動が止められない人」と呼ぶ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

 

最上で無病の、清らかな人を自らの分別によってわたくしは見る。人が全く清らかになるのは、そのような両極端の見方による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、自らの分別にもとづいた見解を最上の境地に達し得る智慧であると理解する。それは、人間的思考の運動(信⇔疑)によって運動をするので、あるときは、それが清浄に感じるが運動によって次第に疑惑へと変化する。それを知って聖者は、それらの両極端の運動を制したところに安穏を感じとり、遂には彼の岸へと到達するのである。