スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

2017年

スッタニパータ 死ぬよりも前に857の解説

857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。

 

 

 

人間は、人間的思考の運動による欲望によっていつも騒がしい。つねに、「ああしたい」「こうしたい」と心がざわついている。そして、その思いによって、無数の縛めが存在する。諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそは、平安なる者である、とわたくしは説く。かれには、欲望によって発生する縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えて、彼の岸に到達したのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に856の解説

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。

 

 

 

人間的思考の運動を制した人は、理法を知ってこだわることがない。人間的思考(快⇔不快)の運動による理想というものもない。かれには、また生まれてきたいという強い想いも、解脱したいという精神的な想いも存在しない。人間的思考による貪りも制し、精神的な貪りをも制して、世の中の荒波に巻き込まれずその上に立つもの、かれこそは、平安なるものと呼ばれる。

スッタニパータ 死ぬよりも前に855の解説

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動を止めていない状態では、感情の起伏、すなわち快⇔不快の感情が交互に渦巻く。その感情の起伏によって、他人と比較しては、優劣をつけ、その状態によって、感情も運動をするのである。すなわち、勝れていると思えば、感情が高ぶるし、劣っていると思えば消沈する。このような運動を繰り返しているのである。聖者は、その感情を、常に中道に保って、平静であって、常に感情の運動に気をつけていて、世間において他人と自分とを等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、劣っているとも思わない。他人より勝れているから解脱出来るのではない。また、等しいからで脱出来るのではない。また劣っているから解脱できないのではない。このような感情の起伏を制し、安穏に満ちているかれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に854の解説

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。

 

 

 

人間は、人間的思考(快⇔不快)の運動にもとづいて、利益を求めてうろつく。そしてその結果にもとづいて、感情(喜⇔怒)も運動をする。このようにして荒波を創っていくものと知れ。利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。人間的思考の運動による妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。見るもの、味わうもの、聞くもの、感じるものに対しての二元の運動を常に制して、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 死ぬよりも前に853の解説

853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

 

 

人間は、人間的思考(快⇔不快)の運動を常に行っているので、物事をすぐに2つに分ける。すなわち快、不快にである。そして快に耽溺して、快を得れば、高慢に陥り、語気を強め、貪りの相をを有する。そして、人間的思考の判断基準によって物事を信じ、不快を排除しようとするのである。聖者は、自らの人間的思考(快⇔不快)の運動に常に気をつけ、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。人間的思考の運動をしている状態が、煩悩の荒波であることを知って、その荒波を制して遂には彼の岸へ到達するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

全ての人間的思考の運動を静止せよ。この運動を静止することによって、人間的思考(快⇔不快)の運動による欲するものを制して、遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、欲するものを得るために偽(いつわ)ることなく、欲するものを貪(むさぼ)り求めることなく、また、執着を離れ慳(ものおし)みせず、一時的な状態に傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。全て人間的思考の運動によってこれらのことが起こるのである。これらのことが起こった場合は、人間的思考の運動であると、気づいて常に静止せよ。賢者はその運動から離れたところに座するものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

 

人間的思考の運動が求める幸せは、苦しみが付着している。すなわち幸⇔苦の運動である。一時的に幸せを掴んだとしても、それは運動をするので、必ず反対のものが目の前に現れるのである。そういった人間的思考の運動によって未来を求めることを静止する。人は、過去のことも思い出しては、心が運動をする。すなわち良かった悪かったである。そういった運動も気をつけて止めるのだ。そして現在においても、感覚的感受による快⇔不快と言う人間的思考の運動を離れて中道を歩むもの、かれは諸々の偏見に誘われることはない。かれはすべての運動を制して常に満たされ、安穏に満ちているのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

 

 

かの聖者は、両極端に分けることがなく、不快に感じることはないので、怒ることはない。快に思うこともないので誇らず、それらを貪り求めてあとで後悔するような悪い行いもしない。自らの運動によく気をつけて語り、何かを求めてそわそわすることもなく、ことばを多くは語らない。このように聖者は、すべてにおいて、自らの反応の仕方によく気をつけ人間的思考の運動を制して世の中を遍歴するものである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

 
849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

 

人間は、過去のことを思い出しては、「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思いだしては、心が運動する。すなわち過去における自分は、このようにあれば、良い⇔悪いと言う人間的思考の運動なのである。現在においてもこの想いが巡り運動をする。そして、未来においても、この想いが運動をするので、心安らぐことはない。この運動によって禍福が作られるのである。運動をするので、良かったり悪かったりするのである。そしてその運動には、苦が伴う。それを知って、死ぬよりも前に、人間的思考の運動を静止し、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがないのである。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

人間は、想いによって生まれてくる。そして、自らの想いとこだわり、すなわち一方的な偏った見方に執着をして、それぞれの見方が違うものであるから、お互いに衝突しながら世の中をうろつくのである。その想いによって、人々は束縛される。人間的思考は運動をするので、あるときはその想いが満たされ、あるときは枯渇する。そうして迷いの流転に引き込まれていくのである。想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって、様々な見方を知り、一方にこだわらず平等な見地に立つ聖者は解脱し、遂には迷いの荒波を渡り終わって、彼の岸に到達するのである。