スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇906の解説

906 かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

 

 

 

かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。修行の過程において、自らの道に心が高ぶる運動は、人間的思考の運動である。自らの見方にこだわることも人間的思考であるから、かれらは荒波のうちにあるのである。自らの運動に気づかず一切の議論がそのとおり真実であるということになると思いこんでいるのである。かれらの考えによるとかれらはそれぞれ清浄となれるはずだからである。それを知って修行者は、自らの考えにこだわらず、他を排除せず、全てを鏡のようにうつしだし真理をとらえ遂には大円境地へ至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇905の解説

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

 

 

 

自己の説を堅(かた)く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いている運動は、人間的思考である。すなわち、優⇔劣の運動である。もしも、他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。それらは全て人間的思考の運動を繰り返しているからである。他のものが勝れていると言うから勝れるのではない。下劣だと言われるから下劣なのではない。そう言った優⇔劣の運動を止めて制したもの、かれこそは聖者と呼ばれるものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇904の解説

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。

 

 

 

かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。完全⇔下劣という人間的思考の運動である。かれらはこのように互いに異なった執着したそれぞれの見方をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。しかしながら人間的思考の運動のうちにあるのである。人間的思考の運動をしている限り煩悩の荒波のうちにあり、めいめいがおぼれかかっているのである。聖者は、こだわらず、排除せず、この運動を止めるものである。そして遂には、自らの偏った見方を制して平等性智へ至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇903の解説

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。

 

 

 

人間的思考の運動が起こるとそこには正⇔誤の運動が起こる。「これだ」と思うことで、これのみが正しくて、他のものは全て誤りであると言う思考の運動が起こるのである。そうして、自らのみが真理に達したものであって、他は全て下劣なものとして排除しようとするのである。この運動はまさに人間的思考の運動なのである。聖者は、この運動を止めるものであって、この運動をするものではない。それを知って修行者は、自らの心の運動に常に気をつけ、荒波を回避し、遍歴せよ。

 

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇902の解説

902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。

 

 

 

人は、死に直面したときに、ああすれば良かった、こうすればよかったという想いによってまた生まれてくる。そして、生を受けては、願い求め、さまよい歩く、また、何かを恐れて、はからいをする。想いが時間を作り、この無常の世を構成する。無常は変化であるから、人々は、変化を恐れてまた、はからうのである。人が欲するとき、そこには人間的思考の運動がある。快、不快である。人は快を求め欲し、それは運動をするので必ず反対の不快が目の前に現れる。これは、運動であるから、快、不快が交互にかれに襲いかかる。運動は変化であるから、無常である。無常を恐れてかれははからうが、人間的思考の運動のうちにあるので、また変化をする。聖者はそれを知って、人間的思考の運動を止め、何かをもとめることもなく、はからうこともない。この変化の運動を止めて聖者は遂には、生死を乗り越え解脱へ至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

 

あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動により何かを「掴み」あるいは、何かを「失う」妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにあり、この「掴み」⇔「失う」の運動を繰り返す。すなわち何かを掴んだときにかれは心が高ぶり、失ったときに消沈する。このような人間的思考の運動であると知れ。そして何かを掴んだ生存状態に執着をして、また生まれてくるのである。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動に常に気をつけ、荒波を制して彼の岸へと向かうのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

一切の人間的思考の運動による戒律や誓いによる「安心」⇔「不安」という運動をも捨て、世間の「罪過(ざいか)ある」或いは「罪過なき」この宗教的行為による人間的思考の運動(罪過ある⇔罪過ない)をも捨て、この行為が「清浄である」とか「不浄である」とか言うこともなく、それらにの人間的思考の運動にとらわれずに行え。ー安らぎに強く執着することもなく。人間は、宗教的行為においても、戒律についても、人間的思考の運動を制しなければならない。邪であるとか、聖であるとか心が運動してはならない。その思考は全て人間的思考であり、苦の根源なのである。この運動を繰り返すと、戒律によって苦を生じ、宗教的行為によって苦を生じるのである。修行者は、自らの人間的思考の運動を制して、両極端の思考を掘り尽くして、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、不安な気持ちが立ち上がり、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めて安心するのである。たとえば隊商からはぐれた商人が不安になり隊商をもとめ、家から旅立った旅人が家をもとめて見つけたときは安心するようなものである。かれらは、このように人間的思考の運動である「安心」⇔「不安」の運動を繰り返し、煩悩の荒波をつくってゆく。この二元の運動が煩悩の荒波である。修行者は、この両極端に偏った運動を制して、荒波を渡り終わり遂には、彼の岸へ到達し安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々すなわち人間的思考の運動により戒律を仰ぐ人々は、戒律を守ることによって「安心」し戒律を守れなかったときは、「不安」になる。これは人間的思考による安心⇔不安の運動である。かれらは「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人間的思考の運動を繰り返す人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。それを知って修行者は、この絶妙に立ち上がる人間的思考の運動をも制して、遂には、ニルヴァーナへ至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

人間は、新しい発見に心が動き運動をする。すなわち「これだ」と思うのである。その瞬間心が快へ大きく動く、それは人間的思考の運動であるから、かならず反対へ振り子のごとく動くのである「違う」である。この「これだ」⇔「違う」の運動をする。すべての凡俗の徒は、この快⇔不快の運動にもとづいてそれぞれの見解をいだき執着をする。智者は、この運動を止めるものであるから、その運動に近づくことはない。かれは、見たり聞いたりしたことを両極端すなわち快⇔不快に分けることがないので、「これだ」と思い入れることはないから、こだわりがない。すなわち執着をしない。かれはすべてのことがらについての人間的思考の運動を制して、寂静の境地に至っているのである。