スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句776の解説

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

 

 

 

この世の人々が、諸々の人間的思考の運動により分別した生存状態に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。人間的思考の運動を止められない人々は、種々の生存状態に対する強い想いを離れないで、生まれてきては、また死に直面して泣く。人は知るべきである。この世は無常である。無常の世で永遠に手にできるものは無い。変化する状態に執着をすることは苦であると知り、諸々の人間的思考の想いを離れて遂には彼の岸へと到達せよ。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句775の解説

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

 

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動による欲求のために不正を行ってはならない。人が不正を行うとき、人間的思考の激しい運動により、欲しい欲しいと言う欲求が高まり、不正をしてでも欲しいと思うからである。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。この短い命の中で、不正という激流に溺れることなく、この運動から遠ざかることを学び、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句774の解説

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

 

 

かれらは人間的思考の運動による欲望を貪り、熱中し、自らが作り出した煩悩の荒波に溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正をしてでも手に入れようとするが、死時には、全てを手放す苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか?」と。そしてかれらは、失った欲望を取り戻しにまた生まれてくるのである。そして汚泥に覆われ、激流に襲われ苦のスパイラルに迷妄する。人は知るべきである。無常の世において、永遠に手の内にあるものなどなにも存在しないことを。修行者は、この世は無常である事をよく自覚して空の悟りを知り人間的思考の運動を制してこの世の荒波を渡り終えよ。

 

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句773の解説

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。

 

 

人間的思考の運動による欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々すなわち運動を止めようとしない人は、解脱しがたい。他人が運動を止めて解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも想像しながら、妄想に陥り、これらの目の前の欲望または過去の欲望を人間的思考の運動によって快⇔不快の運動をしながら貪(むさぼ)る。そして求めては目の前に現れ、無常の世の中にあって、失っては苦しみ、現れては喜ぶ。その喜びには、この世の中の仕組みが無常であるが故にまた失うという苦がつきまとうのである。

 

スッタニパータ  洞窟についての八つの詩句772の解説

772 窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

 

人間(動物)という失われる世界の身体のうちにとどまり、人間的思考の運動(快⇔不快)にもとづいて執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人。実にこの世の中の人の多くは、このために生きていると言っても過言ではない。実に苦しみの激流に溺れているのである。このような人は、実に人間的思考の運動から遠ざかり離れることすなわち厭離(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実にこの欲望が渦巻き人間的思考で構成された世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

スッタニパータ  欲望 771の解説

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

 

 

それ故に、人は常に自らの人間的思考の運動によく気をつけて、運動を制止して、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、この世の無常を知り、人間的思考の運動による欲望の対象は空である事を悟って激しい自らが作り出した人間的思考の運動による流れを渡り終わって、彼岸に到達せよ。

 

スッタニパータ  欲望 770の解説

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

 

 

平坦だったかれの思考にこの人間的思考の運動すなわち煩悩の荒波がかれに襲いかかる。この人間的思考の運動は、振り子のような運動をするので、かれが求めているものをかれが掴んだとしても、必ず運動をして正反対のもの、すなわちかれが望まないものが目の前に現れるのである。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。故に修行者は、この人間的思考の運動を止めて、荒波を回避せよ。そうして、破れた穴をふさぐのである。

スッタニパータ  欲望 769の解説

769 ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

 

 

人は、人間的思考の運動をしているので、目の前に田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望の対象が目の前に現れるとすぐに分別しようとする。すなわち快⇔不快に分けるのである。そうして欲望を貪り求める。その対象は、この世が無常であるので、すぐに失われる。そうして求めてまた、目の前に現れるという輪廻を繰り返しているのである。掴んだかと思えば消え、消えたと思えばまた現れる。この喜び苦しみを繰り返すのである。聖者はそれを知ってこの運動によく気をつけ、遂には、彼の岸へ到達し安穏を観たのである。

 

 

 

スッタニパータ  欲望 768の解説

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

 

足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、自らの人間的思考の運動によく気をつけて、その運動を制止し諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。すなわち人間は、人間的思考の運動(快⇔不快)によって欲望が立ち上がり執着をする。その運動が起こらないようによく気をつけることである。

スッタニパータ  欲望 767の解説

767 欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

 

 

人間的思考の運動である二元の振り子が逆の方へと運動したとき、欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。このように、人間的思考の運動を繰り返す人間は、禍福が縄のごとく訪れるのである。聖者はそのことを知って、この運動に陥ることは苦であると知って、この両極端の運動である喜びも苦しみも捨て去り遂には安穏を観たのである。