スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ  マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

 

師(ブッダ)は語った、「われは昔さとりを開こうとした時に、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)という三人の心に潜む煩悩を観た。一人は、愛⇔憎の人間的思考の運動であり、もう一人は、好⇔嫌の人間的思考の運動である。さらにもう一人は、人間的思考の運動にもとづいた欲にまみれている魔界のの領域に住む女を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。煩悩に満ちたこの女がそもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。世の中の人々は、名称と形態とを見て分別をするが、聖者は、名称と形態にはとらわれず分別することはない。

スッタニパータ  パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは自らの分別基準で「自分こそ勝利を得るであろう」と思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動を制して邪悪を掃(はら)い除いた人、「ブッダ」と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。あなたは人間的思考の運動の人であって、ブッダは人間的思考の運動を制した如来であるからである。

 

 

スッタニパータ  パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

 

またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を他の諸々の偏見と抗争させないすなわち分別の対象として観ない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で人間的思考の運動による分別によって「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

スッタニパータ  パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

自らの人間的思考の運動による分別にもとづいた特殊な偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する人間的思考の運動をしている者はここにいない」と。人間的思考の運動を制するものが聖者であって、人間的思考の好みにとらわれている人々は、自らの人間的思考の運動が起こす激流のうちにあるのである。

スッタニパータ  パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。人間的思考の運動(勝⇔負)がかれの思考を支配する。勇士よ。かの汝に、ふさわしい、真理に達した人のいるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。論破できれば聖者になるのではない、論破されたら聖者になれないのでもない。その人間的思考の運動(勝⇔負)を制止したところに聖者たる道があるのである。

スッタニパータ  パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所=人間的思考の運動である。しかるにかれはその運動によって慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。快の頂上を極めたものは運動をするので、全く逆の現象が目の前に現れる。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「人間的思考の運動による快によって清浄が達成される」とは説かないからである。

スッタニパータ  パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益(快)を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。このように心が運動するのである。これは、まさに人間的思考の運動(快⇔不快)であり、快を得てもそれは運動をするので、必ず不快な現象も目の前に現れる。そうして、また快を追い求めその運動はやむことはない。修行者は、それを知って、人間的思考の運動こそが苦であると認識しそれを制して遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ  パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。これは、人間的思考の得意⇔失意の運動である。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。一時的な称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。運動が起こると人は、称賛を得ようと貪り求める。そしてあるときは称賛され、またあるときは打ちのめされる。まさに心の中は激流である。修行者は、こころの安穏を保つものであって両極端を求めるものではない。彼の聖者はそれを知って人間的思考の運動による喜び(称賛)を制し論争に近づくことはない。

 

スッタニパータ  パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。論争に及ぶものには、このような激流がついてまわる。あるときは称賛されあるときは悲泣する。かれらに安らぎはなく、激流である。この理を知ったならば、修行者は、自らの人間的思考の運動を制し論争に赴いてはならない。称賛っされれば、運動をするので、非難されるのである。かの聖者はこの理を知って論争に赴かず遂には彼の岸へと到達したのである。

スッタニパータ  パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

集会の中で論争に参加した者は、激しく人間的思考の運動をする。それは、喜⇔怒の運動である。その運動によって称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。このような運動をしているのものだと知れ。運動であるからあるときは称賛され、あるときは論難される。かれらに寂静はない。あるのは煩悩の荒波のみである。それを知って聖者は、論争に赴かず自らの人間的思考による運動を制して安穏を観たのである。