スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

かつては、人間的思考の運動に気をつける修行を心がけていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたのと同様に、修行者が道からはずれたようなものである。苦から遠ざかる修行を忘れ、苦に近づくかれをみて、世の中の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。かれは人間的思考の修行をしていないことに等しく、かれの心は激流に渦巻いている。かれの心は人間的思考の運動により不安定になり、ある時は、浮かれ、ある時は沈む。その道理を知って修行者は、淫欲の交わりに耽ってはならない。自らを制した修行者の心は安穏に満ち、もはや何かを求めて心がうろつく事はない。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ815の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

 

 

淫欲の交わりに耽るものは、人間的思考(快⇔不快)の運動を制するという教えを失い、快を得るためによこしまな行いをする。これは、かれのうちにある動物的なことがらである。この人間的思考の運動にもとづいた行動は、必ず運動をするので、一時的に快を得たとしても、必ず逆の不快が現れるのである。かれはそれを得ては喜び、得れないならば憂う。そして、周りを見ては、心が浮き沈みするのである。修行者は、この人間的思考を喜んではならない。たとえ一時的にそれを得られたとしても、必ず失われるのである。この運動をしている限り心に安穏は無い。修行者は、その人間的思考の運動を離れて、快には、不快が付着していることを知って自らを制し、遂には彼の岸に到達するのである。

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

人間は、人間的思考(快⇔不快)の運動によって、見たり学んだり思索したどんなことでも両極端に分け執着をする。そしてそれは運動をするので、全く反対の現象が目の前に現れて苦しむのである。人間的思考を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは人間的思考を止める以外のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、人間的思考の運動に注視することを怠ることなく実践し、両極端に分けて快を貪ることもなく、また不快を排除することもない。分けないかれの心は、全てを鏡のように写すような境地に至るのである。

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動をする人間は、見たり、学んだり、思索したことがらについて、すぐさまに、快、不快に分けるそして、快と感じたものを取り、不快と感じたものを捨てる。この運動こそ人間の汚れである。この運動をすることにより、禍福を自ら作り、おおよそ半分の視野となる。そして、この運動を繰り返すことによりどんどん視野が狭くなる。そして心の中は、快と感じるものを見ては、心が高揚し、不快と感じるものを見ては心が混濁する。そうして心の中が荒波に覆われていくのである。聖者は、それを知って、自らの人間的思考の運動に常に気をつけ、運動を制し、汚されない。例えば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり、学んだり、思索したどんなことについても、完全に人間的思考の運動を制し、汚されることはない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

人間は、人間的思考(愛⇔憎)の運動により愛を求める。その愛には必ず反対のもの憎しみが付着しているのである。そして、人間的思考の愛は運動をするので、必ず求めていることとは、逆の現象が目の前に現れる。すなわち憎しみである。そして、その変化、あるいは運動がわからず悲しむ。そして失いたくない想いからものおしむのである。聖者の愛は、見返りを求めるのでは無い、与えるのである。自らが、周りを照らす。それが聖者と言われる。かれは、すでに愛⇔憎の運動を静止し汚されることはない。たとえば蓮の葉の上の水が汚されないように、不動のこころを持つものである。

 

 

 

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

 

 

人間は、自らの想いによって生まれてくる。そして、その想いを追い求めて生きるのである。その想いはどこから来ているのか?人間的思考(快⇔不快)の運動からである。その快を追い求めて、彷徨い続けるのである。快を掴んでも、この運動の快には必ず同等の不快が付着しており苦しむ。そして、この無常の世において求めた状態は、時間とともに失われるのだが、執着してやまない人間は、その想いが故にまた生まれて来る。それを知って人間的思考の運動から遠ざかり、退いて修行する修行者は、その齷齪した営みから離れて座し、寂静に努め、迷いの運動すなわち二元の運動によっては自己を表さないことが、かれにはふさわしいことであると言われるのである。

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の運動によって欲するものには、必ず相反するものが付着している。すなわち、快には不快がである。人間的思考によって執着したものを貪り求めたものを得られたとしても、この無常の世では、運動をするので、相反するものが現れた時に憂い、変化しては悲しみ、手放す時にものおしむ。故に心の中は常に激流なのである。ある時は、喜び、またある時は悲しむ。それ故に聖者は、人間的思考による喜びを捨てて、不動の心で世の中を照らす。かれには、所有も、無償有も無く、平安に満たされているのである。

 

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

人は、想いによって、様々な人生を生き、自らが理想とする自分にこだわり、人間的思考(快⇔不快)の運動によって、「わがもの」と欲するもので、自らの周りを取り囲み、ある時は、人から称賛されては喜び、また、ある時は、非難されては打ちのめされる。そして、最後の時を迎えた時に全てを失うのである。人は、「ああしたい」「こうしたい」「あれが欲しい」「これが欲しい」「あの人に会いたい」と言う様々な想いによって生まれてくるが、終焉を迎えた時、かれが手にできるものは何も無いのである。それは、我が身さえである。どんな人生を歩んだものであっても、残るのは名前だけである。そして、全てを失った人間は、その想いによってまた生まれてくる。実に人の生まれ変わりによって流した涙は、大海よりも多いという。それを知って修行者は、「わがもの」と言う想いを捨てよ。人間的思考(快⇔不快)の運動による喜びを捨てよ。その想いを捨て去った先に安穏があるのである。

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。この世は、夢の如く、泡の如くである。そこには愛があり、また苦がある。その愛した同等の苦も存在する。愛する人と出会った時の最高の喜びは、別れの時のどうしようもない苦しみへと変化する。まさに、この世は表裏一体だと知れ。人は、人間的思考の運動により、快すなわち喜びしか眼に入らない。この二元の運動の世界には、必ず同等であり、逆の作用が存在する。まさに、人間的思考の運動を止めない人間は、操り糸に繋がれた人形の如く結ばれている。何かを取れば、逆のものが彼に襲いかかる。修行者は、良きも悪きも双方をしっかり観て世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

 

人が「わがものである」と考える物それは、我が身であり、我が心であり、あるいは、自らが欲して取得したものである。この変滅する世の中においては、一時的に自分が所有することとなっても、必ず失われるのであるから、執着してはならない。そこに執着が生まれると、それと同時に苦が生じる。「わがもの」に執着してやまない人間には、苦がつきまとうのである。修行者は、なぜ苦は生じるのかをよく知って、執着をしてはならない。修行の道それは、苦・集・滅・道である。すなわち苦を集めている元を滅する道なのである。