スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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12月

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句783の解説

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。

 

 

 

 

修行僧が人間的思考の運動である両極端を離れ平安となり、心が安静に帰して、戒律に対しても「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがない。誇ることは人間的思考である。修行者が気をつけねばならないこと、それは、修行の過程においても、むろん快⇔不快の運動に気をつけなければならない。修行過程を誇らしげに言い振らし、他の者から、「素晴らしい修行ですね」と言うような、耳からの感受による快を求める行為は人間的思考である。その運動にも気をつけ煩悩の激流を渡り終わった修行者。かれこそは、高貴な人と呼ばれるであろう。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句782の解説

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と心理に達した人は語る。

 

 

人間的思考の運動により、人からよく見られたいと思う気持ちが修行者に立ち上がる場合がある。この運動は、見られかたが、良い⇔悪いと言う心の運動となっているのだ。人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことをよく見て欲しいが故に言いふらすのであるから、人間的思考の運動をしていると心理に達した人は語る。むろん修行は、人からよく見られたいと心の運動をするためにやるのではない。心を寂静にするためにやるのである。それを知って修行者は、自らの心の高ぶりに気をつけ、中道を保つことを心がけよ。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句781の解説

781 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

 

 

 

人間は人間的思考すなわち、好き、嫌いに分ける思考により、欲にひかれ、好みにとらわれている。そのような人間は、自らの偏った見方を変えることができない。かれは、自らの好みにもとづいた見方が完璧だと思い込んでいるからである。かれは、自らの好みを追求し自慢げに語るであろう。しかし、自らの好みを持った時点で、それは人間的思考なのである。人間は、人間的思考によりすぐに2つに分ける。好きなもの、嫌いなものである。そして、好きなものを追求していく、そして嫌いなものは排除しようとする。好きなものしか見ていないのである。そして、嫌いなもののうちにあることがらを見落とす。そして、だんだん視野が狭くなっているのである。修行者は、それを知って、この二元に分ける思考を止め、偏った見方をしてはならない。全体の一部分しか見ないようでは、全体を掴むことはできないからである。その分けない心で全てを見通し遂には、大円境地のように鏡に映し出されたかの如く全てを知りつくせ。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句780の解説

780 実に悪意をもって(他人を)誹(そし)る人々もいる。また他人から聞いた事を真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒(すさ)むことがない。

 

 

実に人間的思考(好き⇔嫌い)によって他人の悪口を言う人々もいる。また、他人から聞いた事によって人間的思考(好き⇔嫌い)の運動をし、他人の悪口を言う人々もいる。悪口を言う人々がいても聖者は、人間的思考の運動をすることは無いのでそれに近づかない。だから、聖者は、何事についても、人間的思考が動く事はない。人は、常にこの二元の運動をしている。すなわち好き⇔嫌いである。他人を見ては、自分に都合が良ければ、好きと思うし、都合が悪ければ嫌いだと思う。そして、自分の意に沿わなければ悪口を言うのである。それは、運動をするので、ある時は、自らが悪口を言い、ある時は悪口を言われる。結局やったり、やられたりをくり返しているだけなのである。そのように人間的思考の運動を止められない人々は、人の話を聞いては、他人が良いとか悪いとか常に運動しているのである。そして、やったり、やられたりを繰り返し、激流へ飲み込まれてゆく。修行者はそれを知って、人間的思考の運動に気をつけて、他人をそしる言動に気をつけよ。常に自らの心の動きによく気をつけて、荒波をのり超えるのだ。他人から話を聞いたときも、偏った見方にとらわれることなく、中道を歩め。そして、何人も排除することなく、全てを受け入れて、鏡のような境地に至るのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句779の解説

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執着に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

 

 

自らの反応の仕方を知りつくして、激流を渡るのだ。聖者は、両極端の反応の仕方をしない。所有したいという執着に汚されることなく、過去の記憶による煩悩の矢も抜き去って、現在も常に反応の仕方に気をつけ、現世で、人間的思考にもとづいた望み、生まれ変わったらこうなりたいと望むことはない。人は思う今は苦しい、苦しいけれどもがんばれば、望みはかなう。それが人間的思考なのである。人は、苦⇔楽の運動をする。それを知っているのだ。知っていて止めようとしない。修行者は、それを知って、人間的思考の運動を止めて、人間的思考が作り出す激流を渡り終え遂には彼の岸へ到達するのである。

 

 

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句778の解説

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるように悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

 

 

 

賢者は、人間的思考による両極端に対する欲望を制し、感受器官と対象との反応の仕方を知りつくして、貪ることなく、それを得るために自責の念にかられるような悪い行ないをしないで、目の前に現われることがらに対して、両極端の反応をしない。欲望が立ち上がると言うことは、目の前に現われる対象に対して、人間的思考の運動による反応すなわち快、不快で判断しているのである。それを、知りつくすとは?どのような場合に自分は、不快の反応をし、どのような場合に快の反応をしているかに気づく事である。それに気づいて、反応の仕方を変えてゆく。この快、不快という両極端の反応の仕方をしない。どういうことか?ありのままに観るわけである。反応の仕方が変わってくれば、目の前に現われてくることがらに汚されなくなる。すなわち一時的な想いによって迷うことはなくなるのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句777の解説

777 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。ー諸々の生存に対して執着することなしに。

 

 

 

この無常の世の中において、何ものかをわがものであると執着をして、時間と共に失われていくさまに動揺している人々を見よ。かれらのありさまは、ひからびた流れの水の少ないところにいるさかなのように、すぐさま失われていく水を求めているようなものである。これを見て、人間的思考の運動に気をつけてわがものという想いを離れて日々過ごすべきである。この世の中には、諸々の生存状態の人々がいるがうらやましがり、執着する事なしに。無常の世において、想いにとらわれ、常住を望むことは苦である。また、一時的な、他人の状態をうらやむかも知れないが、それもまた変化する無常の状態にあることを知らねばならぬ。人は、人間的思考により、快⇔不快にすぐさまに分け、その一時的な状態に執着をするのである。そして、その状態が変化すると苦しむ。それを知って修行者は、人間的思考を止めて、一時的な状態にとらわれることなく、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句776の解説

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

 

 

 

人間は、想いによってこの無常の書に生まれてくる。そして、諸々の生存状態に対する想いあるいは、こだわりにとらわれ、時間と共に失われてゆく状態に、またそれを得るために不正に走ったことを悔やみふるえているのをわたしは見る。人間的思考に運動をしている人々は、生存に対する強い 執着を離れることができず、死に直面して泣く。想いはまだ尽きぬのである。そしてまた生まれて来る。人間的思考の想いが得られたとしても、死ねば、名が残るだけである。この無常の世に想いによって生まれてくる人々は、その人間的思考の想いを得るべく想いを追い求めるのであるが、それは運動をするので、ある時は、それが表れ、ある時は、全く逆の現象が起きる。修行者はそれを知って、人間的思考の想いには、苦しみが付着していることを知って、常に人間的思考の運動に気をつけその運動を静止して、遂には、この無常の世を離れるのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775の解説

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

 

 

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られていることはどんなことであろうとも、人間的思考の運動によって生じた快⇔不快すなわち快を得るために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説き。もっとやるべき事があるのである。むろんこの世界はやったことが返ってくるのであるから、不正をしたら不正をされそう言う運動を生む。世の中に生じた理不尽な現象は全て自らが生じさせたものなのである。それを知って修行者は、人間的思考の運動を止めその両極端の運動から遠ざかることを学び、この短い人生において寂静を究めて次のフィールドへと向かうのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774の解説

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

 

 

 

かれらは人間的思考の運動で、快、不快にすぐさま分別し、快を貪り、熱中し、自らが作る煩悩の荒波に溺れて、掴んだものを離そうとせず、不正をしてでもそれを得ようとするが、死ぬときには、苦しみに襲われ悲観する。彼らが掴んだものは、死ぬときが来れば全て失われるからである。なにもかもなくしたかれらは、どうなるのであろか?と迷う。かれらは、運動をしているので、快を得ても必ず不快が目の前に現われる。また、自らが不正をしたものは他から己が不正をされるのである。この運動をくり返しているのだが、かれらはそれに気づかす、熱中するのだ。そして同じ運動を繰り返し、また生まれては、追い求め、死に襲われ、また生まれる。人は知るべきである。この運動こそが苦の根源なのだ。智慧ある修行者はそれに気づき、自らを制して、激流を渡る。彼の岸まで渡り終えた修行者にはもはや、生まれる素因は尽きたのである。